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北肥戦誌【1575年】於安が再婚・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

昨年、隆信へ異心を抱かないと約した後藤貴明であったが、どうにも対立する気持ちを捨てていなかった。

そんな中、貴明の一族・後藤貞明が佐嘉へ心を転じ、龍造寺勢を差し招いた。

3月中旬、隆信は塚崎を攻めるが城が堅固であった為、隆信は止む無く田原尚明を使者として貴明と和睦した。

両家は起請文を取り交わし、隆信の三男・善次郎家信(鶴仁王丸)を貴明の養子として貴明息女・槌市に娶らせ、貴明の実子・彌次郎清明を隆信の養子とした。

貴明は杵島郡蘆原に隠居し、天正11年8月2日に卒去している。


この年、隆信は20歳となった嫡子・龍造寺鎮賢(後に政家)へ家督を譲らんと思い立ち、須古の高岳城を隠居所とするべくその普請を命じた。

これに勝屋勝一軒・小林播磨守・成富信種が普請に当たった。

またこの年、上松浦の波多親へ於安を嫁がせている。


同年、隆信は、元亀3年(1572年)に攻城に失敗した、三根郡の横岳鎮貞の西島城を落とすべきと、弟の龍造寺信周・龍造寺家晴に兵を与えて、東肥前へ差し向けた。

城は堅固であったが、此度は少弐政興も、大友勢も加勢には来ず、
鎮貞は、既に龍造寺方にして隆信の義弟であった一族の横岳頼続の説得により、龍造寺家と和睦して西島城を退去、自らは男女悉くを連れ財部村へ入った。

鎮貞はその後、龍造寺家に属して名を「兵庫頭家実」と改める。


西島城が落ちると、龍造寺の諸勢は、次は筑後の貝津城主・安武家教を攻めるべしと、三根郡から貝津へ入った。

家教は元亀3年(1572年)に和を請い起請文を提出していたが、再び背いていたものである。

先手の横岳頼続・坊所尾張守ら2,000余騎が鬨を作って攻め入らんとすれば、城内は不意の事で大騒ぎとなり防戦に至らず、
家教は先非を悔いて再び和を請うと、妻子を連れて城を明け渡し豊後へと去った。

その後、家教は筑後へ戻ると、人質を出して龍造寺家に仕える。

隆信は貝津城へ横岳頼続を入れて護らせた。

また、この際と所領替えが行われ、三根は中の城主・馬場鑑周を杵島の小田へ移して有馬の防衛に当たらせ、綾部鎮守を横辺田へと移した。


須古城普請が12月(11月?)に完成し、隆信はここへ移り住む。この普請は隠居の為だけではなく、有馬勢たる彼杵・藤津の反抗勢力の征伐の為であった。

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二次史料より

『龍造寺文書』にあるようですが、松浦鎮信は父との連署で、1575年5月6日の時点で龍造寺隆信へ誓紙を提出していたそうです。
『北肥戦誌』では恭順は1577年で、その間に有馬領を侵してますから(恭順の時期により)多少意味合いが変わってきてしまいますね^^




武家の風習では、だいたい二十歳を目途に家督を継がせるんだそうです。

もち実権はパパンにあります^^b

ところで竜造寺政家なんだけど、どれだけ病弱だったか謎なんだよなぁ(-ω-:)ウーン

逸話にあるほどのダメな子なら、なぜ隆信が廃嫡しなかったかが不思議なんです(-ω-:)ウーン

もうちょい調べるか・・・φ(.. ) メモメモ

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
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