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【龍造寺が】剛忠(家兼)死す!【分裂?】龍造寺、滅の巻9

1546年(天文15年)3月10日、剛忠(=竜造寺家兼)は93歳で身罷った。

92という年で息子・一門を失う悲運にあいながら、ショックで恍惚しちゃう事無くリベンジを果たす。

さらに93歳の今わの際においても、剛忠(家兼)の頭脳は明晰で後継についての遺言を残した。

1つ、水ケ江・龍造寺家門(剛忠次男)の跡は、家門の子・左衛門大夫鑑兼に与える

2つ、水ケ江・龍造寺家純(剛忠長男)の跡と剛忠隠居分は、周家(家純の子)の次男・慶法師に与える

3つ、水ケ江・龍造寺の総領は、中納言円月(後の竜造寺隆信)を還俗させて当主とせよ

人物・剛忠小(剛忠(家兼)イメージ画像)

みなさま・・・覚えておいででしょうか?

龍造寺には、宗家・村中と、分家・水ケ江、という二つの家があったことを。

みなさま・・・お気づきでしょうか?

剛忠(家兼)が遺言したのは、己の水ケ江・龍造寺の後継だけなのを。

龍造寺剛忠(家兼)の死をもって、龍造寺家は村中と水ケ江のニ家に分裂しました。

剛忠は西千葉とタッグを組んだ。
倒したのは、剛忠(家兼)を陥れた馬場頼周。
奪い返したのは西千葉の牛頭山城と剛忠の水ケ江城。

村中宗家は、自分の城・村中城を取り戻すのに、大内家のバックアップを受けたんです。

分家の立場で宗家を超えるなど、それを看過する宗家当主などいない!

今まで何も揉めてなかったのは、剛忠(家兼)の類稀なリーダーシップの賜物にすぎない。

村中宗家18代目当主は、龍造寺胤栄(たねみつ)。弱冠22歳の若者だ。

彼は「若年だから」と剛忠(家兼)の後見という名のもとに、何も決定する事が出来ない傀儡当主だった。

それが剛忠(家兼)というフタが外れる事により「自由」を得て、
村中宗家独自の道を歩き始める。

家紋・竜造寺(龍造寺家紋)

1547年、村中・龍造寺胤栄は自ら大内義隆の元へ出向き「少弐冬尚の非道」を訴える。
同年、大内義隆は胤栄の訴えを足利義晴に言上。受けた足利義晴は「少弐討伐令」を発布。

同年6月、大内義隆は龍造寺胤栄を豊前守&肥前守護代に任じると、胤栄に少弐討伐を命じる

龍造寺のうち、大内の後ろ盾を得て「大義名分」と「主導権」を握ったのは村中宗家でした。

村中宗家は、大功労者である剛忠(家兼)が亡くなった以上、
分家・水ケ江の風下に立つのは、もう終わりにしたいんです。

この微妙で複雑な龍造寺の状態は、大内が介入するには「ウホウホ♪状態」。

国人領主・龍造寺家が、戦国大名・龍造寺家に生まれ変わる為の「産みの苦しみ」は、剛忠(家兼)の死から始まる。
二つに分裂した龍造寺を、運命が再び一つに和合させるのだが、それは・またの話 by^-^sio

肥前戦国史・第2部「龍造寺家兼編」これにて完結。
次回よりは、第3部「肥前の熊編」です^-^
史料整理のために肥前戦国史は、少々お休みします。
その間は肥後と筑前の方を進めますので、何卒宜しくお願いします^-^
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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