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【肥後の三氏和合】相良氏、戦国名君編9

大友にとって、相良の態度・行動は好ましいものではない。

だが相良は、大友が手袋を投げるまでには至らない、
外交としてはギリギリセーフな状態を賢くキープしていた。

大友にすれば、相良というフタが外れた南肥後の混乱の方が怖かったのだろう。

大友は相良に対し、不快と態度に出すどころか、逆に気遣う風を見せている。

(相良編メイン出典元「八代日記」「南藤曼綿録」他)

家紋・相良

1534年の菊池義宗謀反の時も、
相良は「肥前守護職(当時)様から命令されたの(vv*)」という在地領主らしい大義を慎ましく?掲げた。

そして義宗に助勢への感謝を貰いつつ、途中から謀反メンバーから抜け、
大友からマークされるのをチャッカリ免れている。

相良が、こうした外交駆け引きをしたのは、長年のライバルである名和氏との関係改善の為とシオ推測してました。

むろん相良が優位な立ち位置であるのが前提での関係改善です。

相良は、そのための外交手札を増やすために、色々動いたのでは?と考えてました。

二系統に分裂した阿蘇氏ですが、ライバル名和の押しメンも相良と同じ阿蘇惟長・惟前親子なんです。

日頃ライバルの名和と相良は、阿蘇家督に関してタッグを組んで和合成立。

和合の証として名和娘と相良晴広が結婚する。(後に破綻)

1535年12月13日、暮れも押し迫った頃に島原高来から八代へ菊池義宗が亡命してきた。

初めは地福寺に泊まってたのだが、19日に荘厳寺に移動。

翌20日、相良長唯が菊池義宗に「拝謁」しているm(__)m

拝謁という言葉は八代日記に記されており、
相良長唯の義宗に接する態度は、家臣としてのものだった。

義宗がリベンジを全く諦めてないことを、相良がどう感じていたかは判らない。

だが少なくとも義宗がリベンジの為に動き回るのを、止めた風はなさそうだ。

家紋・大友(大友家紋)

1539年12月29日、相良長唯は大友義鑑と菊池義宗を兄弟仲直りさせようとする。
これに伴い、相良、名和、阿蘇惟前の三氏で起請文を交わした。
名和から相良へ(原文要約)
1・肥後諸氏は大友に対し疎義なきこと。
2・大友が相良を攻める事あれば、互いに防戦に努めること。
3・相良~名和間で中傷あらば、互いに隠さず主張し是非を決すること。
4・国中衆の書状は一通でも隠さず開示すること。
5・義武(義宗)の為、勝利するよう策を廻らす事、これは同調すべし。
6・両家(相良、名和)の間で鴆毒(ちんどく=猛毒のこと)を用いて誑かすな。

相良から阿蘇惟前へ(同上)
1・両家(相良、阿蘇惟前)は後代においても無二の関係であり何かあらば要相談のこと。
2・他方より苦情あらば尽力するが、中傷の場合は取り上げない。
3・天文3~4年における阿蘇の好意は忘れない。再び戦にならば心底明らかにすべし。
4・義鑑、義武の斡旋に努めたが、大友に歯向うつもりはない。

肥前の三氏和合が少弐の裏切りで破たんしたように、
肥後の三氏和合も速攻で破たんするのだが、それは・またの話 by^-^sio
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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