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【肥後の名門・菊池義武の最期・壱】相良氏、戦国名君編13

謀反が失敗し肥後守護職の座を追われ、相良氏のところで家族ぐるみでニート・・・
もとい亡命中の菊池義武。

彼が待ちに待ったチャンスが訪れようとしていた。

1550年(天文19)2月10日、大友家で「二階崩れの変」が起きる。
二階崩れの変については、【大友宗麟】夢追う人【ドン・フランシスコ】大蔵系氏族&秋月種実編2 で、
一度語ってるのだが、ちとブランクが空いたので重複するが再び語りたいと思う。

大友家は、とにかく家族不和な一族で、特に親子相克が多い。

その親子間の対立の余りの激しさに、一時期大内家が政治介入したほどだった(大友16代、17代親子の時)

1550年「二階崩れの変」で揉めた大友親子は、
父が20代目大友義鑑で息子は21代目大友義鎮・・・後の宗麟です。

大友宗麟と正室・奈多夫人の不仲は有名だが、
宗麟の父・義鑑も正室(宗麟生母)と不仲だったそうだ。

大友義鑑は大嫌いな正室が生んだ病弱な義鎮(宗麟)を嫌い、
寵愛する側室が生んだ庶子・塩市丸を溺愛した。

そのため大友家中は嫡子・義鎮派と、庶子・塩市丸擁立派とに二分される。

義鑑は溺愛のあまり、遂には嫡子・義鎮を廃し、庶子・塩市丸に家督を継がせようと画策するに至った。

画策のために義鑑は義鎮に対し
「身体によい湯があるから湯治に行っておいで^-^ニコニコ」と大友館から遠ざけた。

義鎮派家臣が、何時もと違う義鑑の態度に企みを察知。

義鎮派家臣が、先手を打って大友館を襲ったのが「二階崩れの変」です。

大友館の二階にいるところを襲われた事から、そう呼ばれました。
二階がホントに崩れたわけではない(念のため)

家紋・大友(大友家紋)

襲撃された義鑑は瀕死の重体で、彼が溺愛した庶子・塩市丸は生母もろとも惨殺された。

同年2月12日、大友義鑑は回復することなく没した。享年49歳
同年3月、庶子擁立派だった大友家臣・入田親誠が、阿蘇惟豊によって殺される。

入田は事変後に阿蘇惟豊を頼り亡命していたのだが、
大友と揉めるのを嫌った阿蘇惟豊により始末されたんです。

大友家は「二階崩れの変の犯人」として入田の死を処理した。
だが無実(と思われる)入田を罪人に仕立て上げたのだ。後々禍根となったのは言うに及ばず(`・ω・´)キリッ

亡き大友義鑑、実弟・菊池義武が行動を起こしたのは、阿蘇が入田を殺したのと同時期だった。
同月14日、菊池義武が隈本城へ入る。
5月、菊池義武が謀反を起こす。

ブランクあるのは、諸方へ兵を募ったりしてたのでしょう。
相良へ菊池義武から使者が来たのは5月16日です。

閏5月、謀反の呼びかけに応じた相良晴広が、阿蘇氏と戦い此れを破る。バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!!

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

1545年に名和・相良・阿蘇とで三氏和合してたんですが、
菊池義武の謀反を前にアッという間に吹っ飛んだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

さらに相良晴広は、名和氏と菊池義武を同盟させる事に成功します。
(もともと菊池義武の正室は名和氏の姫様なんです^^)

6月3日には菊池義武から相良晴広の元へ竹林寺(使僧?)が派遣されている。
名和との同盟に絡むことだったかもです。

こういう状況だったので、初手は謀反側が優勢でして、
鎮圧のために奔走する大友家臣・佐伯惟教(他姓衆)は、一時的に孤軍状態となって奮戦してました。

このまま成功するかに見えた菊池義武の謀反でしたが、所詮それは儚い夢。

8月9日、隈本城が落城し菊池義武は城を脱出。
再び亡命生活が始まるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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