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【肥後の名門、菊池義武の最期・参】相良氏、戦国名君編15

大友家が世代交代したので、脳内整理^^/

1550年「二階崩れの変」で襲われて数日後死亡したのが20代目・大友義鑑。
同年、肥後で謀反を起こしたのは、元肥後守護職にして亡き義鑑実弟・菊池義武。
同年、亡き父の跡を継ぎ21代目当主となったのが、大友義鎮・・後の宗麟。

叔父にあたる菊池義武の謀反鎮圧後、大友家では論功行賞が行われ、
討伐軍大将・小原鑑元が肥後方分(大友用語で守護代のようなもの)となった。

尚、義鑑死亡により「肥後守護職」の地位は現在空位である。

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

北肥後の謀反にかこつけて、名和から豊福城をゲッツした相良晴広。
目的を達したので菊池義武に利用価値はないはずだが、相良家では彼の亡命を受け入れた。

色々考察したんだが、亡命受け入れは「単純に頼られたから」じゃないか?という発想に至った^^;
戦国大名というのはヨーロッパの小国のように、一種独立国家のようなものです。
室町幕府が衰退してるので、それぞれの地域・地方における「公儀」の役割を戦国大名が果たしています。
配下の国人たちは家督問題や領地問題で揉めると、所属する戦国大名の裁定を仰ぐわけです。
従って「公儀権確立」は、戦国大名が戦国大名である為に、とってもとっても重要なんです(`・ω・´)キリッ

で、「独立国家」だから「政治犯亡命受け入れ」も有りでしょう^^b

戦国大名にとって「頼られる」ってことは、ある意味ステータスであり「力の象徴」です。
亡命相手が大物であればあるほど、周囲が相良家を見る威望がグレードアップで、
敵対関係の両者仲介が出来れば外交上手腕の評価もageage

相良家では菊池義武を丁重に迎い入れ(形式上は元主君)、
島津日新斎(四兄弟祖父)を通じ、大友義鎮と菊池義武の仲を取り持とうとしたんですが、大友義鎮が拒否o( ̄Д ̄θ★ケリッ!

八代日記によると1551年(天文20)1月28日と2月15日にも、
大友家から相良家の元へ使者が訪問してるんですが、いろいろ不首尾だったようです。

家紋・相良(相良家紋ロゴ)

戦国大名に「自分は戦国大名だ」って認識はないでしょう。
位置づけするのは歴史の流れを知ってる我々後世の人間です。

「自分の配下になる領主」か「影響下にある同盟国」か「別個の独立した存在」なのか、
それが決まるのは、戦だったり外交交渉における感触で掴む、、、まさに真剣勝負の世界。

大友義鎮は、大友家当主の意向として政治犯・菊池義武の引き渡しを相良家に要求してました。

ですが、相良家は義鎮の申し出を拒否。
菊池義武を「元の御屋形様・・・客人マレビト」として遇し続けました。

南肥後三郡を領する相良家は、大友家の配下領主じゃない。
「引き渡せ」「はい、どうぞ」と一度でも従えば、この先ずっと外交上で大友が上位って態度で出てくる。

「相良家は大友支配から独立した存在」だって事を新当主・義鎮に認識させるためには、菊池義武を大友家に引き渡してはならない!

相良の面子を潰し、曲げて引き渡しを要求するならば、
大友サイドは領地割譲、軍事的支援、とにかく何らかのメリットを相良に提示すべき。

もちろん大友義鎮は、相良に譲歩なんて事したくない~~
こっちはこっちでキング大友の威信に関わる^^;

大友と相良の駆け引きが続くなかで、
肝心の菊池義武は八代にジッとしておらずウロウロしてたのだが、それは・またの話 by^-^sio
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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