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【king大友、幻の三州統一・参】相良氏、戦国名君編20

豊後大神(おおが)氏。祖:大神惟基(おおが これもと)。通字:惟

・長男:高千穂氏(本貫地:日向国臼杵郡高千穂郷)、嫡流は三田井氏。
・次男:阿南氏(本貫地:豊後国大分郡阿南郷)庶流代表例:小原、雄城、大津留、由布
・三男:稙田氏(本貫地:豊後国大分郡稙田郷)庶流 〃 :入倉、十時、田尻
・四男:大野氏(本貫地:豊後国大野郡)   庶流 〃 :朽網
・五男:臼杵氏(本貫地:豊後国海部郡臼杵荘)庶流 〃 :戸次、佐伯、賀来、緒方

大神惟基は平安時代の人物ですが、伝説・伝承が多く明確な経歴は不明です。
嫡男の高千穂氏が相続放棄して高千穂に土着した理由も不明。

家紋・大友(大友家紋ロゴ)

鎌倉時代に大友氏が豊後入りした時、当然の事ながら豊後国人である大神氏族は激しく抵抗した。
だが徐々に大友氏が優勢となり、それとともに大神氏族は大友家臣団の中に組み入れられた。
大友は大神氏族懐柔のために縁組(臼杵、戸次)したり、大友家の家紋使用を許可する(同紋衆)
だが全ての大神氏族が家紋使用を許可されたわけではない。
大友家臣参入後発組は、家紋使用の許可は下りず、新参者(他姓衆)のくくりに入った。

大神系で同紋衆代表例⇒戸次氏、臼杵氏
大神系で他姓衆代表例⇒阿南氏、佐伯氏
つまり、簡単に言うとこう↓
同紋衆>>>>>超えられない身分格差>>>>他姓衆

本来は同族であった大神系武士団は、大友の定めた身分格差のために激しく反目しあうようになる。
頑張っても頑張っても、格下扱いの他姓衆サイドに、より不満が溜まるのは当然だろう。

それは、大友の軍編成にも表れた。
大友では配下の国人や他姓衆家臣に先陣を命じるんです。

先陣は非常な名誉で、損耗も激しいと同時に武功チャンスも多く、本来であれば志願してでも欲しい役目です。
が、恩賞が無いか薄いのが前提での先陣となれば、話は違ってくる。( ̄ω ̄A;アセアセ
他姓衆には、主君・大友家が過酷な最前線を自分たちだけに負わせて、本軍である同紋衆を温存しているようにしか見えない。

1550年菊池義武の謀反鎮圧の際も、最初に向かったのは、他姓衆の小原と佐伯ら。
当初は謀反側が優勢だったために、本軍である戸次ら同紋衆到着まで、一時孤軍状態だった。
謀反鎮圧後、大将の小原は肥後責任者に任命されたものの、佐伯には恩賞らしい恩賞は無かったそうだ。

これは大友家の台所事情と関係がある。
実は大友宗家の蔵入地(直轄地)は、分家より少なかったんです。
豊後平定の過程で恩賞を与えた為で、主家アルアルな話です( ̄ω ̄A;アセアセ
そのため大友宗家は家臣団のパワーバランスをとるのに常に苦労してまして、
本軍温存もあるけど同紋衆に大きな手柄を立てられると困るってのもあったんです。
(他姓衆は押さえつけ我慢させられるが、譜代や一門には恩賞ゼロって訳に行かない)

それでも20代目大友義鑑の頃はマシでした。

義鑑は家中融和のために他姓衆からも加判衆(家老にあたる役目)を選び、他姓衆の不満を抑えていました。
さらに同紋の代わりに偏諱(へんき=諱プレゼント)ラッシュ。
お蔭で通字の惟が埋没、苗字が無いと区別不可のデジャヴュ諱が量産・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

義鑑は死に臨んで嫡子・義鎮に対し「加判衆は、同紋より三名、他姓より三名とせよ」と遺言した。
が、義鎮は不仲だった父の遺言をガン無視した。

人物・大友宗麟(21代目大友義鎮=宗麟)

全権を与えられ肥後入りした小原鑑元だが、元々は加判衆でした。
義鎮は翌年の1551年3月に、まず小原を加判衆から解任した(小原: ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!)

家臣の謀反を警戒する義鎮は、一人に権限が集中するのを恐れ、加判衆との兼務を嫌った。
後年ですが道雪も筑前・立花城へ入る時に加判衆から外されています。
でも1551年当時の解任目的は、加判衆からの他姓衆排除でした。
義鎮は自分の周囲を譜代・一門からなる同紋衆で固め、
さらに同紋衆でも自分の意のままにならない者は「謀反の過度有り」と処刑した(1553年・府内の乱)
他姓衆にとって、新当主・大友義鎮誕生は「恐怖政治」の幕開けだった・・・


( ̄ko ̄)<実は、豊後大神系氏族は、宇佐神宮と関わりありまして。
宇佐神宮自体は宇佐(豊前)大神氏が創ったのですが、豊後大神氏の祖には宇佐大神氏説もあるんです。

何が言いたいかって言いますと、
豊後大神系氏族は(宇佐神宮と繋がりある氏族だから)程度の差はあれ基本としてキリシタンがキライ
(キリシタン布教許可は1553年で、同年6月に宣教師の住院が府内に完成)
(大友内部で差別されたから)反抗的で、神の国に理解のない大神系氏族は「義鎮にとって獅子身中の虫」認定。

とまぁ、こういった因縁の積み重ねで堪忍袋の緒がプッツーーンした小原鑑元が、1556年5月に肥後で挙兵したのだが、それは・またの話 by^-^sio
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Re: No title

はい、力があるときは従ってますが、
衰退した時は鬱積のタガが外れます。

大友は、そういう意味では典型的な例です^^
ポチありがとうございます^-^

No title

他勢力を支配する場合、身分差をつけるのは鉄則ですが、
あまり、度が過ぎると、逆に作用する場合が多いですね。
戦が不利になると、すぐ寝返ったりとか。

W村ポチ。
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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