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【神童・肥前の仔熊~前篇】肥前の熊「誕」の巻4

龍造寺隆信が生を受けたのは、1529年(享禄2)2月15日。

奇しくも、同年に前半生のライバル・神代勝利が家督を継いだ。
翌年が鍋島・赤熊武者が活躍する「田手畷の戦い」なので、隆信の生年は覚えやすい。

幼名は長法師丸。
戦国・南の高性能ジーちゃん龍造寺家兼の曾孫にあたる。

水ケ江・龍造寺家兼⇒長男(家純)⇒長男(周家)⇒長男(長法師丸で隆信)

という系譜で、通常の武家であれば水ケ江の嫡子は長法師丸だったはずだ。
ところが7歳の時に寺へ預けられ、養育だけかと思いきや、そのまま出家している。

龍造寺家は、実は家督が複雑な家です。
これは肥前千葉氏が東西に分裂した事と無縁ではないだろう。
肥前千葉の被官だった龍造寺家は、肥前の複雑な政局に合わせて村中宗家当主が交代した。
もちろん裏で糸を引いていたのは、分家・水ケ江龍造寺当主である家兼だろう。

人物・剛忠小 剛忠(家兼)イメージ画像


そして変則家督相続は、水ケ江龍造寺家も例外ではない。
家兼長男だった家純は、家兼の次男(家純から見て弟)を養子にし相続させてます。
家兼次男だった家門は、家純の長男(家門から見て甥)を養子にしてるんです。

上の系譜上の流れと見比べながら、こっちが家督相続の流れ↓

家兼⇒長男・家純⇒次男・家門⇒孫・周家(長男の長男)⇒⇒?

相続者を長男にしたり、次男にしたり、またまた長男の系統に戻したり。
順番?で行ったら、次は次男の系譜か?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

家兼は親子の情実に流される事が一切なかったのではないだろうか。
「実力あるものに家督を継がせる」を徹底していたのだろう。
だが、いくら長子相続が確定していない時代とはいえ、コロコロ変え過ぎじゃね?( ̄ω ̄A;アセアセ
少弐冬尚や馬場頼周が、家兼を警戒するのも無理はない話だ。

実は剛忠(家兼)亡き後に、村中(宗家)と水ケ江(分家)は分裂し、水ケ江も隆信相続に対し反旗を翻す者が出る。
無血の禅譲・・家督チェンジは、剛忠(家兼)のような卓越したリーダーがいてこそ成功するのだ。
長男家と次男家を、行ったり来たりする家督相続は、剛忠(家兼)亡き後は揉める元にしかならなかったのだろう。

息子・一族が非業に死ぬ一大事が無ければ、剛忠(家兼)は次は誰に家督を継がせるつもりだったのであろう・・・

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

さて、ジーちゃんの思惑はともかく、長法師丸クンは非常に優秀な御子だった。

長法師丸が8歳(7歳?)のとき、侍女が『平家物語』を読んで聞かせていたところ、
「わしは源氏か、平家か」
と、問うたので侍女は、
「源平では御座いません。御当家は藤原の御末孫です」
と答えたところ、
「藤原の武勇は、源平と比べてどうか?」
と再び尋ねたので、藤原氏代々の武勇を話して聞かせると、長法師丸は機嫌よく壇ノ浦の戦話を聞き、それを一度ですっかり覚えてしまったとのこと。

剛忠(家兼)は長法師丸に壇ノ浦の話を所望すると、長法師丸は空でそれを読んだ事から、剛忠(家兼)はこの子は只者ではないと感心し、
出家とすれば九族(自分を中心とした祖先4代と子孫4代)天に生じて仏の果報を得るべし」
として、長法師丸を出家させたとの事です。


只者出ないと感心して、なぜそこで出家?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
やっぱ順番?で次は次男家から相続者を選ぶつもりだったのかなぁ(-ω-:)ウーン

1535年(天文4)、長法師丸は数え7歳で宝林院に入り中納言円月と称した。
この時点で、父・周家は伯父・家門の養子となっており、次期当主候補だった。
長法師丸が長男でありながら相続から外されたのか。
はたまた嫡子候補として養育のために寺院に預けられたのか。

剛忠(家兼)以下関係者全てが鬼籍に入っている以上、知る由もない。
とにかく結果として長法師丸は出家したのだが、それは・またの話 by^-^sio
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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