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【肥前の仔熊・中篇】肥前の熊「誕」の巻5

皆さま、本日紹介するのは、佐賀県佐賀市鬼丸町~(*´○`)o¶~~♪
やたら名前にインパクトあるこの町は、佐賀城の超近所^^/

7歳で寺に入り(1535年)、中納言円月と呼ばれる事になった長法師丸(後の龍造寺隆信)。

寺の名は元々は宝琳坊と言い、あちこちで寺を開基してる行基が建立したとされる。
イイ感じに寂びれた所で、龍造寺家が再興。
以来、地頭職を務める龍造寺家の祈祷所だった。

15世紀に入って、家兼の父・康家が三男の修業スキルアップを機に宝琳坊をテコ入れ。
なんということでしょう(ビフォーアフター風に)
宝琳坊は恵日山龍造寺宝琳院(佐賀市鬼丸町)と生まれ変わったのでございます。
地形は、ぜんぜん山じゃないです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

てことで、装い新たになった宝琳院の初代住職は、龍造寺康家の三男・澄覚。
家兼ジーちゃんの兄様にあたる方です。(-人-)☆彡
元々が祈祷所でしたから、龍造寺家の菩提寺にするつもりだったかもしれません。
住職は「龍造寺一門から選ばれる」と規定されていたようです。

円月(隆信)が入った時の住職は二代目で豪覚。
北肥戦誌には大叔父(家兼三男)ってあるけど、隆信の父(周家)の弟説もあります。
HPの沿革によると、龍造寺一門の中には、住職でなくとも出家して宝琳院に入った者がいるらしい。
逆に出家した後に還俗し、再び武士となって戦場で散った者もいたそうな。
てことで「宝琳院に入る=イコール永久就職・僧侶」とガッチリした枠組みでもなさそうだ。

シオ推測だが、7歳で入った当初は「行儀見習い&武家素養スキル」がメインだったんじゃないだろうか。
本格的に出家で住職コースになったのは1537年(天文7)なのでは?
というのも、龍造寺家を取り巻く政治情勢が変化してるからです。

人物・剛忠小 剛忠(家兼)イメージ画像

1530年「田手畷の戦い」での活躍で、正式に少弐被官となった家兼。
だが僅か6年後に「龍造寺家兼は大内に寝返った」と少弐サイドに疑われ攻撃されてるんです。
これは龍造寺を煙たく思った肥前小田氏の讒言によるもので、家兼が裏切ったという事実はありません。
強いて言うなら「時期尚早、自重論」を唱えた事で誤解された。。。というのはありそうです。

家兼は、少弐から勘気を蒙ったという事で、預かっていた龍造寺総領職を宗家へ返上。
村中宗家当主の後見役となって、実権は握りつつも表舞台から一歩下がりました。
更に1538年に入道し名前を剛忠(家兼)と改めたんです。
因みに、この時で85歳。( ̄ω ̄A;アセアセ
同年、宝琳院二代目住職・豪覚が死去した。
三代目住職は源覚なのだが、数年後に円月(隆信)が4代目住職になったところを見ると、
三代目は高齢、若しくは円月(隆信)が住職としての教養を身に着けるまでの繋ぎの住職だったのかもしれない。

剛忠(家兼)は政治情勢が変化すると、家督チェンジをする。
状況が変わるまで、カメレオンのように周囲の色に合わせるのだ。
少弐被官となったのは水ケ江龍造寺家で、村中宗家ではない。
だから、村中宗家では遠慮して少弐被官である家兼を表に立てた。
今度は家兼が少弐から勘気を蒙ったので、水ケ江は裏方に回り村中宗家を前面に立てる。
コロコロ変わる方が信用されないんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

とにかく目立つ事を避けようとしてた剛忠(家兼)なので、一度寺に預けた神童・円月を俗世に戻さず住職コースに乗せる事にしたのではないだろうか。
寺院という形態をとっているが、宝琳院も龍造寺を支える一門の一つなのだ。
必要に応じて還俗させる融通性があったのはないだろうか。

周囲の状況をよそに、仔熊な円月は僧侶に惜しい体躯に成長するのだが、それは・またの話 by^-^sio
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Re: No title

大叔父説もあるんですか(@@)
御教授ありがとうございます。
本文を修正しますm(__)m

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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