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【肥前の仔熊・後篇】肥前の熊「誕」の巻6

1538年(天文7)3月13日、家兼が入道した年に鍋島直茂は産まれた。
赤子の直茂と円月(龍造寺隆信)との接触は、おそらく無かっただろう。

翌年1539年(天文8)、村中宗家17代目胤久が40歳という壮齢で死亡。
15歳の嫡男・胤栄が当主となる。
正室は剛忠(家兼)次男・家門の娘で、剛忠(家兼)は若年の胤栄の後見役となった。

17代目胤久は、剛忠(家兼)が(村中宗家の頭越しに)少弐被官となった時に、遠慮して出家した人物だ。
宗家の方が遠慮するほど、偉大な功労者・剛忠(家兼)のカリスマ支配力が強かったのだろう。
少弐から勘気を蒙った剛忠(家兼)は、実権は握りつつも後見役という立場に一歩下がった。
これにより剛忠(家兼)は「分家の身で宗家を蔑ろに・・」という誹りからは免れる。
そのような噂が実際にあった訳ではないが、少弐から突っ込まれる種は無いに越した事は無い。

人物・剛忠小 剛忠(家兼)イメージ画像

1542年(天文11)剛忠(家兼)次男・龍造寺家門に次男が誕生した。
次男の次男なので本来なら家督に縁が無いはずの赤子だった。
だが長子である兄が、少弐&馬場の陰謀で非業に死んだ事から運命が変化する。

前回記事にしたように、水ケ江龍造寺は剛忠(家兼)の意向で変則家督相続を繰り返していた。

剛忠(家兼)長男 ⇒ 養子in剛忠(家兼)次男 ⇒ 養子in長男家の長男 ⇒⇒ ?未定

長男家にも次男家にも、それぞれ男子がいるにも関わらず、まっとうな流れで相続していない。
普通の武家であれば、長男の長男の、これまた長男にあたる隆信が嫡子。
にも関わらず、隆信は宝琳院に預けられ出家し円月となってるんです。

このまま家督キャッチボールが続けば、次は次男家から分家当主が排出される番。
水ケ江龍造寺・次男家で産声を上げた赤子は、龍造寺家に本人が望まぬ波紋を起こす事となる。


さて肝心の円月(隆信)ですが、彼は体躯に優れ、12-3歳の頃には既に20歳くらいの者と比べても遜色ない程だったそうだ。
眼光あくまで鋭く、才智・力量に富み、剛強の業を好んだとされています。

15歳の頃(1544年?)、同じく宝琳院で修業していた僧の一人が村人とケンカし、負けて寺へと逃げ込んだ上、寺の門扉を閉ざすという出来事があったようです。
その折、村人6-7人が門の扉を押し開けようと怒鳴り散らすので、円月(隆信)が一人でこれを押さえた。
すると、力が強過ぎるあまり扉を押し倒してしまい、村人4-5人が扉の下敷きになったので、村人は恐れをなして逃げて行った・・・という事があったそうです。

ちょっと人間離れした怪力なんで、誇張されてるかもです( ̄ω ̄A;アセアセ
円月(隆信)が宝琳院住職になった時期は、自分では調べきる事は出来ませんでした。
が、剛忠(家兼)が死亡した数え18歳の時には、住職だったようです。

寺院の門扉を壊した翌年の1545年1月・・・一族、何より実の父が非業の死を遂げる一大事発生。
僧侶として終わるはずの円月の運命が、
ひいては肥前一国の歴史が、大きく動くのだが、それは・またの話 by^-^sio

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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