FC2ブログ

【還俗・前篇】肥前の熊「誕」の巻7

1545年1月、少弐冬尚と馬場頼周の陰謀により龍造寺一門が抹殺される。

殺されたのは( )内は龍造寺隆信から見た係累関係。
筑前河上で、家純(祖父)家門(叔父)澄家(純家か?叔父)
祇園原で、周家(父)家泰(父の従兄弟)頼純(叔父)


全て水ケ江龍造寺家の者で、少弐と馬場のターゲットが剛忠(家兼)だったのが窺える。
これだけでなく少弐・馬場の策略である「偽りの有馬討伐」で戦死した龍造寺一門もおり、人的被害は甚大だった。
少弐や馬場が「これだけ痛めつければ立ち直れないだろう」と判断し、剛忠(家兼)自身を見逃したのも判ろうというものだ。

家紋・少弐 少弐家紋ロゴ

少弐と馬場のターゲットは、龍造寺・村中宗家も例外ではない。
水ケ江城と同時期に村中城(後の佐賀城)も、軍勢に囲まれた。
もっとも、メチャクチャ御近所の本家と分家の城なんで、一緒に囲んじゃったほうが取りこぼしないってのもある。
(ほんと近所なんだってば、現代人でも徒歩で行ける近さ!)

龍造寺隆信の資質に剛忠(家兼)なら気づいていただろう。
同時に隆信の酷薄な気性にも気づいてたんじゃないだろうか。
だから出家させたのかなぁ~とも思う。用いるには危険すぎるから。

とはいえ、この非常事態の今となっては、貴重な男子。
剛忠(家兼)は円月(隆信)を宝琳院(佐賀市鬼丸町)から脱出させ、筑後に同行させたらしい。
村中城落城が1月18日で、水ケ江落城が同月22日なので、この前後に円月(隆信)を逃がしたと思う。

円月(隆信)が4代目住職となった宝琳院は村中城と200M離れてるかな~ってくらい近い。
で、水ケ江も村中城と200Mくらい離れた赤松小学校のあたり。
で、水ケ江と宝琳院も200M~300Mくらいの距離にあるんで、
てことで、村中を頂点とすると左下に宝琳院、右下に水ケ江で△ゾーンになります。
風水的になにかあるかは判りません。
とにかく宝琳院は住職が龍造寺一門から出ると決まってた寺院なんで、寺院だから安全地帯とは言えなかったんです。

地図・東肥前 ゆるふわ東肥前地図

剛忠(家兼)と残った家臣らは、筑後・蒲池氏の保護を受けて筑後一木ってとこにいました。
(村中宗家は大内を頼って筑前へ)

剛忠(家兼)~同年3月にはリベンジしてます(早っ!
その時に剛忠(家兼)を迎えたのが、地図にある川副・与賀の豪族たちです。
彼らを説得し、まとめたのが後に鍋島直茂と結婚する彦鶴姫の実家である石井氏です^-^

水ケ江城を取り戻した剛忠(家兼)。
ホッとしただろうし、落ち着いたら息子・孫を非業のうちに一度に失った悲しみも込み上げたに違いない。
93歳という高齢もあって老衰。
翌年の1546年3月10日に死亡した。

ちなみに剛忠(家兼)の死亡した年は、剣豪将軍・足利義輝の将軍就任の年。
馴染の人だと、黒田如水と武田勝頼が産まれた年です^-^

身体は老衰してても、頭脳は最期まで明晰だった剛忠(家兼)
相続に関して、キッチリと遺言を残した。

1つ、水ケ江・龍造寺家門(剛忠次男)の跡は、家門の子・左衛門大夫鑑兼に与える
2つ、水ケ江・龍造寺家純(剛忠長男)の跡と剛忠隠居分は、周家(家純の子)の次男・慶法師に与える
3つ、水ケ江・龍造寺の総領は、中納言円月(後の竜造寺隆信)を還俗させて当主とせよ

長男~次男~と、謎の家督キャッチボールをしていた、剛忠(家兼)。
カリスマじーちゃんの遺言とはいえ、複雑な家督相続してたために「円月(隆信)の還俗後当主」に異を唱える者が出たのだが、それは・またの話 by^-^sio
スポンサーサイト



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
779位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
122位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR