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【宗家の花道・前篇】龍造寺隆信「苦」の巻

龍造寺胤信(隆信)が家督を継いだ翌年の事だ。

龍造寺村中宗家当主・胤栄(たねみつ)が、自ら山口へ出向いた。
彼は大内義隆に少弐冬尚の非道(龍造寺への裏切り・陰謀)を訴えたんです。

大内義隆「渡りに船♪ヽ(*´∀`)ノ」室町将軍・足利義晴に言上。
足利義晴「らじゃ~大内君の言うとおり~」てことで「少弐討伐令」が出される。

1547年6月、「少弐討伐令」をゲッツした大内義隆は、討伐そのものを訴えた龍造寺胤栄に命じた。
更に、それに伴い龍造寺胤栄を「豊前守と肥前守護代」に任じた。


肥前守護代!(゚ロ゚屮)屮おお~~~
確か東千葉初代が死んでからは、肥前守護代は空席だったはず~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

龍造寺隆信が大内のバックアップを受けてたのは、そこそこ知られてると思う。。。たぶん(汗
だが実は、大内のバックアップを受けたのは、村中宗家の方が先だったんです。

家紋・大内 久々登場「大内花菱」

亡き剛忠(家兼)の「後見」という名のもとで、傀儡だった村中宗家当主・胤栄。
実際、家督を継いだばかりの頃は、未だ少年から青年へと成長期の最中だったのも事実だ。
成長した胤栄は、剛忠(家兼)の死で自己判断の自由を得た。
そうなったら、今までの反動か、超アクティブ。

「誕」の巻で語ったように、胤信(隆信)の水ケ江当主の座は足固めがシッカリしていない。
水ケ江内部で「胤信(隆信)当主決定議案」で会議が踊る堂々巡りの時にも、宗家の立場で宥めたのが胤栄だ。
記録の少ない胤栄だが、行動力といい、宗家の役割を果たす度量といい、いやなかなかどうして。
肥前の熊・龍造寺隆信は別格としても、胤栄もそれなりの器量はあったと思う。

同年7月下旬、胤栄は肥前本領へ戻ると、胤信(隆信)と連絡を取り合った。
でもって少弐エリア・三根&神埼がある東肥前へと出陣した。


むろん、主導権は村中宗家・胤栄にある。
討伐命令を受け、肥前守護代に任じられたのは胤栄なのだから。

少弐サイドの武将たちは、各所で龍造寺勢を防ぎ、冬尚実弟の千葉胤頼(東千葉当主)も牛尾の城にて防戦に努めた。

牛ノ尾城データ
場所:現牛尾神社のあるあたり(佐賀県小城市小城町池上字牛尾)
    晴気城&牛頭山城から南へ4~5kmほど離れてます。
来歴:詳細不明(`・ω・´)キリッ 判ってるのは築城主が千葉胤頼って事だけ。
特徴:一応山城・・・なんだけど山っていうより丘陵というか峰って感じが近いらしい。
近くに牛津川あるけど、それ以外は天嶮ってわけでもないし心細い地形だ^^;
各所で防ぐって北肥戦誌にあるから、おそらく牛尾城を囲んだ兵力は、さほどじゃなかったのだろう。

家紋・少弐 少弐家紋ロゴ

歴代磨いた?少弐のゾンビパワーも伊達じゃない。
意外と粘られ「うち(龍造寺と味方の豪族たち)だけの手勢じゃ無理っぽい~~~~~~~~><;」
胤栄は大内家へ援軍を頼んだのだが、それは・またの話 by^-^sio

地名で地図検索に、すっかりハマってるシオなのだ(*´pq`)クスッ
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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