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【宗家の花道・後篇】龍造寺隆信「苦」の巻2

1547年、龍造寺宗家当主・胤栄(たねみつ)は、自ら山口へ出向き大内義隆の後ろ盾を得る。
大内は室町将軍家から「少弐討伐令」ゲットし、胤栄に「少弐討伐」を命じた。

肥前本領に戻った胤栄は、水ケ江の胤信(後の龍造寺隆信)と協力し、少弐エリアの東肥前へと出陣した。
少弐勢は龍造寺勢からの攻撃に果敢に防戦し、龍造寺サイドもこれらに手こずる。

同年閏7月、胤栄は杉隆満(大内配下・筑前守護代)へ情勢を訴え、大内サイド筑紫勢からの援軍を得た。
筑紫家・・・攻撃されると大内に寝返る常連なのだが、もともとは少弐一門です( ̄ω ̄A;アセアセ
とにかく龍造寺勢は筑紫の加勢を加えて、少弐冬尚の勢福寺城へと押し寄せる。

少弐冬尚は、亡き剛忠(家兼)&西千葉・胤連にリベンジされ牛頭山城を追い出され、一門の横岳氏の保護で三根西島城に入った。
(実弟の東千葉・胤頼は晴気城へ入り、その後で前記事の牛ノ尾城へ移動)
ちなみに三根西島城は、少弐冬尚パパン・資元が幼少期を過ごした城でもある。
その後、剛忠(家兼)が死んだドサクサに紛れ、いつのまにやら勢福寺城に戻ってたらしい。

家紋・少弐 少弐家紋ロゴ

少弐勢は老臣・江上元種、宗本盛(秀恒・少弐家老)、馬場周詮ら、三根・神埼で防戦すれども悉く敗れる。
宗は対馬の宗氏がバックアップしてたわけじゃありません。
が、宗一門の中で少弐サイド(縁戚)がいたんです。


同年8月5日「米田原(目達原)の戦い」で、宗本盛は苔野口にて討ち死。

位置データ:目達原~~神埼郡吉野ヶ里町吉田目達原
(原とあるだけあって、戦するのにイイ感じの広さだぉ♪ヽ(*´∀`)ノ)
位置データ:苔野口~~神埼郡吉野ヶ里町吉田苔野
(目達原への入り口だから近所、目達原から筑後川支流挟んで西南にある)

家老の死に少弐方の意気・戦意は消沈il||li _| ̄|○ il||lもぅダメポ
同年10月16日、ついに冬尚は勢福寺城を落ち延びた。
三根・神埼などの少弐領は大内義隆に没収され、龍造寺家がその境の番となった。


おそらく、この三根・神埼への出陣が龍造寺隆信の初陣です。

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

天文17年(1548)3月22日、村中龍造寺の正統・豊前守胤栄が卒去。

肥前の熊・龍造寺隆信が主役として躍り出るために、これも用意された運命だったのだろうか。
少弐の陰謀で祖父・父・叔父たちが非業に倒れなければ、僧侶・円月(隆信)に出番はない。
龍造寺宗家当主が死ななければ、胤信(隆信)は分家・水ケ江当主のままだった。

剛忠(家兼)の傀儡当主だった胤栄。
剛忠(家兼)の死によって傀儡の呪縛から解き放たれた。
やっと「自由」を得たというのに、自己判断で活動したのは一年あまりという短さ。

胤栄は打ち上げ花火のように、一時夜空に閃光を放ち器量の片鱗を見せると、大輪を咲かせることなく散った。
享年25歳。(-人-)☆彡合掌

胤栄には世継ぎが無く、娘が一人いただけ。
龍造寺宗家老臣らは龍造寺の嫡流が潰えるのを懸念し会議なぅ

( ̄ko ̄)<ところが実は、龍造寺宗家には別系統で男子がいたんでつ。
亡き剛忠(家兼)の家督コントロールのために、正統から外れた男子なのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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