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【胤信(隆信)排斥派・前編】龍造寺隆信「苦」の巻6

1546年、筑前国人・秋月文種が大友に対し謀反を起こした。
戸次鑑連(後の立花道雪)、佐伯、臼杵、吉弘らが、1万の兵を持ってこれを鎮圧する。


ここで注目するところは「大友に対し謀反」の部分です。
なぜなら西暦で1546年というと大内義隆は存命中。
筑前は大内支配圏で、大内が任命した守護代がいたからです。

それが何故に大友に対し謀反になるのかというと、実は筑前の中に「大友領」がありました。
話はシオ記事で言うと「剛忠(家兼)と呼んでネ」龍造寺「破」の巻9、年代でいうと1538年5月29日に遡ります。

この時に北九州の覇権を巡って争っていた大内義隆と大友義鑑が和睦しました。
(和睦に至った経緯は龍造寺「承」の巻と相良氏、戦国名君編で語ってるので割愛。)
で、その時の和睦条件として、筑前の一部が大内から大友へ割譲されたんです。

その大友領にあるのが、立花城、柑子岳城です。
その後に大友家は筑紫家をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!追い出し、岩屋城、宝満山城をゲッツ。
後年、島津北上の野望を打ち砕いた「立花城ー宝満山城ー岩屋城」の軍事防衛シフトが構築されていきます。

そうなると、大友からの圧迫をモロに受けるのが古処山城(朝倉市)の秋月氏です。

家紋・秋月 秋月家紋ロゴ

謀反を起こした細かい経緯は調べきれませんでしたが、大友支配を嫌った秋月が反抗し鎮圧されたようです。

秋月が謀反を起こす時って、単独って殆どない。
どこかと同盟するか「中国地方の大物」から支援を受けます。
だから秋月文種謀反のバックに大内義隆がいた可能性はあります。

いずれにせよ、謀反の前後事情は大内家でも情報キャッチしてたでしょう。
当然、大内家では面白くない(・A・)

大内にすれば、領地を割譲するのは認めたが、そこを足掛かりに大友が勢力拡大するのを認めた訳じゃないからです。
大内と大友の緊張状態が再燃し始めた頃に、肥前で龍造寺胤信(隆信)が宗家相続をしました。

亡き村中龍造寺宗家当主・胤栄は、生前に大内義隆のバックアップを受けていました。
それを胤信(隆信)が継承したので、胤信(隆信)も大内サイドと目されてたんです。
(ただし具体的な接触は未だない)

胤栄未亡人と胤信(隆信)の結婚で、村中龍造寺と水ケ江龍造寺が合一し「新・龍造寺」が誕生しました。
だが村中宗家家臣の中で「胤信当主」を快く思ってない者がいました。

それが土橋栄益です。

龍造寺系図①
龍造寺早わかり系図
(黒数字が村中宗家当主カウント・青数字が水ケ江当主カウント)

土橋は、胤信(隆信)対抗馬として、わずか数え7歳の鑑兼を担ぎ出す事を思いついた。
で、大内家対策として大友義鑑と接触したんです。

というのも鑑兼の「鑑」の文字は、大友義鑑からの偏諱で、鑑兼の烏帽子親は大友義鑑だからです。
烏帽子親~~~ってことは、鑑兼は子供ですが元服してたことになります。

少弐の陰謀で龍造寺一門が抹殺され、鑑兼の父・家門も殺されました。
その家門の跡を継ぐため、幼いながらも急きょ元服したのでしょう。

通常であれば、鑑兼ちゃんは庶流で正統とは言えません。
ところが龍造寺の場合は、そうとも言えない事情があったのですが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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