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地図から見た少弐と龍造寺・参

水ケ江城の築城時期は、ザックリ文明年間とハッキリしていない。

剛忠(家兼)の父・康家の隠居城だったのだが、その康家の生没年が不明な為に築城時期も不明なのだろう。
自分は、康家の隠居と水ケ江築城も、与賀城と関連あるのではないかと推測してました。

村中城・水ケ江城・与賀城は、それぞれ直線距離で1km離れていない(佐賀城の堀を無視した場合)
道路が舗装された現在、三カ所を一日で訪問するのはシオでも楽勝な近さ。

これほどの近さで城を建てられたら、国人の身として少弐へ伺候しないわけに行かない。
伺候といっても、少弐政資に会える訳でなく、龍造寺への対応は少弐家老クラスだったと思う。

ここでハタと困るのは、龍造寺家は代々肥前千葉氏の被官だという事だ。
少弐が来たからと言って、従来の主君である肥前千葉氏を蔑ろには出来ない~~

(-ω-;)ウーン っと悩んだ結果、康家が隠居し水ケ江城へ入る事にしたんじゃないでしょうか。
もしくは元から隠居してたかもですけど。

とにかく隠居の龍造寺康家が従前通り肥前千葉氏へ伺候し、現役当主(or嫡子)である胤家が少弐・与賀城に伺候する・・・という流れまで妄想 考察してた。
と同時に宝琳院を~は、前回考察と同じで。

龍造寺系図①

龍造寺家の困惑は、間もなく解消する。
少弐政資が肥前千葉の家督に介入し、縁戚関係となって両家は実質一体化したからだ。

龍造寺は、今まで通り肥前千葉の被官でいれば、少弐へ与力する事にもなるので「主君二股状態」を回避できる。
が、一つ解決したら、新たな問題発生。
肥前千葉氏が中国地方・ドン大内の介入で、晴気(西)千葉と祇園(東)千葉に分裂したからだ。

ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
てことで龍造寺の方も、剛忠(家兼)が分家を立て、宗家・村中龍造寺と分家・水ケ江龍造寺となった。


戦国時代、親子兄弟が敵味方に分かれて合戦するのは、普通にあることだ。
そして敵味方に分かれる一番の理由は、勝った側に付いた方が生き残り、負けた身内を助命嘆願したりして家を残すためです。

例えとしてあげるなら、一番有名なのは真田家ですな ( ゚Д゚)y─┛~~

龍造寺の宗家と分家が敵味方になる悲劇は、結果としてなかった。
だって剛忠(家兼)がカリスマ支配し、宗家も分家も掌握しちゃってましたからね(^ -)---☆Wink

治まるところに納まったところで、大内に敗れた少弐政資が死んで少弐が没落する ヽ(。_゜)ノ へっ?
少弐の縁戚だった西千葉家も当然衰退。

(系図緑ライン)家和の反対を押し切り、西千葉への肩入れを止めない(系図黒ライン)胤家。
胤家は戦にも敗れ、龍造寺内部からも孤立し、当主(or嫡子)でありながら亡命を余儀なくされる。
代わって当主となったのが家和です。

家紋・竜造寺 竜造寺家紋ロゴ

戦国時代とはいえ「弟が兄を押しのけて家督を継ぐ」というのは「普通じゃない」です。
家中分裂、兄派・弟派で流血するレベル。
剛忠(家兼)が家和派であろう事は、皆様じゅうぶん察しがつくと思います。

で、自分は更に深読みで、いっけん西千葉に肩入れしてる胤家ですが、実は龍造寺家における「少弐支持派」だったんじゃないでしょうか?

それなら少弐が没落した時に、胤家を龍造寺家の総意でo( ̄Д ̄θ★ケリッ!追い出しにかかったのが頷けます。

目と鼻の先に目障りな城を建てやがった・・・ゲホグホ
失礼、少弐は肥前国人にとっては他国人。
大内との争いを肥前に持ち込む禍の元。

肥前の国人は、本音の部分では少弐を受け入れてなかったと思います。
だって少弐は肥前に骨を埋めるつもりはサラサラなくて、肥前国人を利用してるだけですもの。

そして少弐と龍造寺が対立した原因は、御近所すぎる城・与賀城の帰属問題だと思うのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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