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地図から見た少弐と龍造寺・四

前回、少弐は肥前国人に歓迎されてないと書いたが、よくよく、よくよ~~~く調べると政資の頃は違ったようだ。

大内のために大宰府を追われ肥前に入る事になった少弐政資。
「押忍!肥前で勢力広げて巻き返しだ!」
って事で、肥前の民を味方にするため尽力してたみたいなんです。

何回か登場している与賀神社だが、その中にある社・・いわゆる境内社に「少弐神社」がある。
祭神は「少弐政資」
昭和27年に与賀神社と与賀郷の功績を鑑み、祀られた。

少弐神社の由緒によると、与賀に入った少弐政資は、与賀郷の開拓・開墾に尽力し港の整備などなど、民草を慈しみ善政を布いていたそうだ。

龍造寺家「やりづらさ倍増(´;ω;`)ウッ」
大宰府長官が数百メートル近所に城をリフォーム&定住し、善政を布かれたのでは隣は堪らない。
開墾・開拓かぁ~衰退したとはいっても、少弐と龍造寺じゃ資本力が違ったろうなぁ( ̄ω ̄A;アセアセ
龍造寺家の蒙る迷惑度は、自領農民が与賀郷に逃散しないか見張らなきゃならないレベル。

肥前千葉⇒(少弐)⇒龍造寺⇒鍋島 と支配者が目まぐるしく変化した肥前国。

佐賀藩士として生き残った千葉家はともかく、滅びてしまった少弐の「肥前における功績」を辿るのは、専門の郷土史家でないと難しい。
少なくとも「少弐」で検索した程度では、ネット上でHITしない。
自分も地図作りで「地名」を辿って検索してたら、偶然に見つけたんです。

そのため少弐政資が死んだ後に、与賀城がどうなったのか・・・という事すら判然としない。
郷土史を地図から辿っていく限りでは、すぐには破却されてないのは確かで、最終的には龍造寺のものとなっている。
なってはいる・・・が、龍造寺が「いつ与賀城をゲッツした」がシオレベルでは判らない(-ω-;)ウーン

政資が死んだ時に息子・資元は幼く、少弐一門の横岳氏の保護を受け西島城(地図参照)で幼少期を過ごした。

東肥前ぬくもり戦国地図

与賀郷は、少弐にとって「特別な地」だったと思う。
目標は「打倒大内・大宰府奪還」だ。
だが、与賀郷を拠点に~というだけあって神社と城を改修、入江(小津)を改修し港(今宿・今津・相応津等)を開いている。
ということは現在の西与賀町相応津は、海沿いにあったのか__φ(.. ) メモメモ
さらに「法一章5ケ条の津町の制札」を定めるなど、土着しそうな勢いで丹精込めて豪族・民を撫育している。

さらに鎌倉時代に与賀郷地頭だった少弐とは、少弐資能のことだ。
少弐家としては二代目だが、少弐姓を最初に名乗った人物だと言われている。

これは想像になるのだが、少弐が肥前に土着し生き残った場合、肥前における本貫地は、おそらく与賀郷だっただろう。

こういった経緯を見るに、少弐が与賀城(与賀神社込)を簡単に手放すとは考えづらい。
少弐資元が成長し御家再興するまで、少弐一門が城番として預かってたんじゃないかな~と思う。

だが少弐氏が大内に押されてくるにつれ、情勢が変化し始める。
与賀郷の豪族たちが、龍造寺に靡き始めたのだ。
与賀郷の豪族が、龍造寺に一目置くようになったのは、当然「田手畷の戦い(1530年)」(^ -)---☆Wink

剛忠(家兼)の武功に対し、少弐資元は川副荘千町の領地を与えた。
配下として与力していたものの、龍造寺家兼が正式に少弐被官となったのは、この時だ。
そして分家・水ケ江龍造寺が、村中龍造寺宗家を超えた瞬間でもある。

御近所VIP少弐の見えないプレッシャーから、必死に自分の地盤を死守してきた龍造寺家。
少弐の衰退とともに、勢力を拡大していくのだが、それは・またの話 by^-^sio

PS:今までの連載(家兼編)は何だったんだ~~~という突っ込み不可で(-人-)☆彡オネガイ
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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