FC2ブログ

【龍造寺にイエローカード】地図から見た少弐と龍造寺・八

実の所、与賀と川副の豪族が龍造寺に靡いたのは、剛忠(家兼)が手なずける以前に、少弐自身(と主に馬場)が招いた割合が大きい。

家紋・肥前千葉 肥前千葉家紋ロゴ

話は1524年に遡る。
「西千葉が大内に内通している」と噂が広まり、それを聞きつけた暴走忠臣・馬場頼周。
「噂は間違いなし!」「おのれ、西千葉!こぉの~裏切り者!天誅!o( ̄Д ̄θ★ケリッ!」
と、時の西千葉当主を小城郡・晴気城から追い出してしまった^^;

元から裏切っていたのか、馬場に追い出されたからなのか、とにかく西千葉は数年間浪人し大内サイドについた。
結果、物凄く困ったのが与賀&川副の豪族たち。
そもそも彼等は西千葉(旧肥前千葉氏)の被官で、少弐と西千葉が縁戚として一体化したので、そのまま少弐与力へとスライドしてたんです。
それが主君同士で仲間割れしちゃった( ̄ω ̄A;アセアセ

東(大内サイド)と西(少弐サイド)の最前線・小城郡は晴気城には少弐のアフターケアがあるので無問題。
だが戦略的価値が低い与賀・川副にはアフター無し。
かつては与賀が少弐の拠点だったが、守りに不向きなので神埼に移動してしまい、与賀・川副は実質放置状態。
文字通り与賀・川副は(主君が)誰もいなくなった ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
主君・無住の地は、よほどの防衛力を保持してない限り、他国や夜盗などの草刈り場になる (((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

まず与賀は飯盛城・石井氏と隣の本庄・鍋島氏が相談~(*´・д・)(・д・`*)ヒソヒソ
龍造寺へ与力する事によって、その保護下に入る事にした。
西千葉は田手畷の戦い(1530年)で、少弐サイドへ戻り小城郡に帰還~元の鞘に収まった。
だが少弐も西千葉もアテならない事に気付いてしまった与賀・川副の豪族たちは、龍造寺を頼みとするようになった・・・という側面があったのです。

家紋・少弐 少弐家紋ロゴ

大内の攻勢に押された少弐資元は「龍造寺家兼の仲介で」大内と和睦しました。
が、これが実は偽りの和睦。
大内義隆は太宰少弐を始末すべく、それより上の官位「太宰大弐」を狙って朝廷に猛烈アピールなぅ。
和睦は、そのための時間稼ぎだったんです。

1535年、大内は大宰府駐屯の陶興房に命じて、少弐の領地を没収した。
この時に龍造寺家兼が「大内に寝返ってた」とするサイトを見かけるが、出典や具体的な話は不明です。
ただ少弐の領地が没収された時に、佐賀郡の川副や与賀も没収されてる・・・はず。たぶん。
なんですが、仲介の労をとった龍造寺の川副にあった領地は、無傷だった可能性はあります。


少弐が龍造寺の村中城から数百メートルしか離れてない場所に来たのは、そもそも「龍造寺を頼って来た」事からだそうです。
それが少弐資元の祖父にあたる少弐教頼のこと。
年代的に言うと応仁の乱が始まった翌年に、教頼は大内に敗れて自害してます。

少弐教頼は生前、ちょいちょい肥前に亡命してたそうで、その避難先として「龍造寺を頼り」数百メートル先、御近所の与賀に居館を造ってました。
与賀は鎌倉時代に少弐が地頭だったという地縁があったからです。

が、教頼の子・政資の時に立場が逆転します。
少弐政資は、朝鮮貿易セレブ対馬・宗氏の資金力を背景に、与賀神社を中興。
居館も与賀城へとハイパーリフォーム。与賀領内も開拓開墾され、入り江は港にグレードアップ。
と、すごい高度成長期in与賀~って状態。
急速な少弐再興フィーバーに、しつこいが数百メートル御近所の龍造寺は完全に圧迫されていたと思います。

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

それが、いつものパターンで少弐が没落し、あれほどテコ入れしてた与賀を防備が弱いとアッサリ離れ、少弐は神埼郡へと去ってしまった。
龍造寺にとって、与賀城は少弐の「( ̄Д ̄θ★足跡」
少弐(ゾンビ)の往時を残す亡霊のようなものです。

領地を拝領し、主君と被官の関係である以上、放置に近い状態であっても「主君の城」に手出しは出来ません。
そのくせ、そこを他勢力に獲られでもしたら、半径数百メートル範囲内の龍造寺が脅かされる。
こんなに始末に困る&メンドクサイ城は滅多にないでしょう。


ここから先は考察というより、シオの勝手な憶測です。


大内義隆が少弐領地を没収した時、大内に接収された(はずの)与賀城は、御近所で仲介の労をとった龍造寺に預けられたのではないでしょうか。

裏切り・不忠の誹りを回避しつつ、合法的に与賀城を手に入れるチャンスを龍造寺家兼は待ってたと思うんです。
手に入れたからといって、何かする訳ではないでしょう。
歩いて行ける距離に城が何個もあってはコストがかかるだけです。
お互い平坦地にあるので、軍事的な連携する必然性も皆無なほどの御近所キャッスル(城郭)なんです。

ただ、放置してると(龍造寺にとって)危険なので、(龍造寺が)管理しておきたかった・・と思うのです。
シオ推測を証明する術はありません。
少弐資元は、領地没シュートの翌年に大内の攻撃によって自害しています。

佐賀郡で少弐より人望・衆望を得た龍造寺を危険視し、イエローカードを出したのは資元の子・冬尚。
おそらく冬尚は、与賀城に入った事は一度もないだろう。
イエローカードを出された龍造寺を待っているのは、オーディエンスが全て敵のアウェーだったのだが、それは・またの話 by^-^sio



スポンサーサイト



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
653位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
111位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR