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【最後の清算】地図から見た少弐と龍造寺・了

素人の拙い考察に長々御付き合い頂きありがとうございます^-^
さて、今回がラストということで、話は少弐冬尚死後になります。

少弐冬尚は龍造寺隆信の攻撃により、永禄2年(1559年)に勢福寺城で自害しました。
が、完全に滅びたわけではなく亡き冬尚実弟・政興を少弐家臣が担ぎ出し抵抗を続けていました。

シオ考察では、隆信が「主殺し」の誹りを受けるのを危惧したと推測してました。

少弐冬尚と馬場頼周が有馬と組んで、龍造寺一門を抹殺した。
その衝撃的ニュースのインパクトで、世評は龍造寺家に同情的。
少弐冬尚を討った事は「仇討」と認識されていたのでしょうか、龍造寺に対し非難の声は今のところありません。

一方、少弐冬尚に対し有馬と組んだ事に対する誹謗の声も・・・イマイチない?感じ?じゃね?
本来ならば少弐冬尚に向けられるであろう「同盟裏切り」に対しての罵倒は、馬場頼周が全て引き受けて墓まで持って行きました。
そういう意味で、馬場頼周は賢臣ではなかったけれど、忠臣であった事だけは・・・真実だったと思います。

人物・馬場頼周 馬場頼周・暗黒面

僧侶出身で教養のある隆信は、今現在でなく後世出るであろう「少弐に対する感謝の声」を恐れたと思います。
時が立ち人心が落ち着けば、「少弐の殿さまは良い事もしてくれたでつ(*´ー`)」と、懐かしむ声が必ず出てきます。
それが証拠に、昭和になってから与賀神社に境内社として少弐神社が祀られているじゃないですか。

龍造寺隆信は、本拠地から数百メートルしか離れてない与賀郷から「少弐の痕跡」を完全に消し去る事を決意した。

永禄6年(1563年)
4月1日、空は闇の様な曇天となり、雷電夥(おびただ)しく、拳大の雹が降り、人馬が数多殺された。
同月2日、九重の塔が炎上する。(出典:北肥戦誌)


旧暦4月は暦上では初夏とされていました。
新暦に換算しても5月です。そんな時節にコブシくらいの雹~~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮
こりゃ頭とかに、直撃されたら死ぬわ~~(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
とどめが「九重の塔(肥前国分寺)」炎上。

龍造寺隆信は、この天災を契機に龍造寺家鎮護を目的とした龍泰寺(佐賀市赤松町)を建立します。
その龍泰寺こそ、少弐氏与賀城のあった場所そのものなんです。


由緒によると「隆信が少弐氏の城跡(与賀城)を選んだ」とあるので、あえてソコにしたんです。
龍泰寺建立には1565年説もあるんですが、これは少弐政興の御家再興が潰えた時期がハッキリしないせいだと思います。
自分はタイミング的に天災があった1563年だと思います。
佐賀県文化庁関連HPも、1563年になってるし(*´ー`)

与賀城は完全に破却され遺構はゼロ。
よしんばあったとしても、その上に龍泰寺がある限り、発掘は不可能です。( ̄ω ̄A;アセアセ
敷地内墓地には龍造寺関連だけじゃなく、大隈重信公の墓もあるし~~無っ理~~~( ̄ω ̄A;アセアセ

江戸期に書かれた北肥戦誌・・・自分の手持ちデータは全文じゃないんですが、その中には与賀城の記述はありません。
隆信の少弐痕跡隠しが完璧で、江戸時代には人々の記憶から完全に消えてたと思われます。
自分が与賀城と少弐神社を知ったのは与賀神社を調べたからです。
逆に調べなければ、今も知らないままだったでしょう。

おそらく与賀神社所蔵の文書に、少弐政資の業績を記したものがあったと思います。
与賀神社は、「与賀郷鎮護宮」で与賀だけでなく佐賀郡全体から尊崇されていた神社です。
さすがの龍造寺隆信も、与賀神社内にある少弐寄進のアレヤコレヤには手出し出来なかったみたいですね^^;

ちなみに龍泰寺は曹洞宗で、隆信が住持だった宝琳院は天台宗。
なんで同じにしなかったか~というと逸話があります。

天文16年頃、円蔵院にある豪覚和尚(隆信の師匠)の石塔が、夜になると怪火を出すとの評判が立った。
数多くの名僧が経を唱えて御霊を慰めようとしましたが、一向に効果がない。
そして8月12日、曹洞宗龍雲寺の大用和尚にも依頼があり、大用和尚も石塔へ向かい念仏を唱え、
更に「種々の幻化は覚心より出ず、即今幻尽き、覚尽くる時如何、自ら代って曰く、薪尽き火滅す」と唱え、
供の僧が続いて「火を焼く火 杖の如く、杖も亦無用」
と言い杖を投げ付けると、怪火は消え、以後は出なくなったとか。
これより隆信は天台宗から曹洞宗へ帰依する様になったそうです。


このシリーズの前半に出てた「龍造寺の龍造寺による龍造寺の為の宝琳院」ですが、江戸期に寂びれました。
江戸初期・宝琳院住職が龍造寺隆信の曾孫で、江戸幕府に龍造寺再興を訴え出て大騒ぎになり会津に預けられた例の人だからです( ̄ω ̄A;アセアセ
龍造寺一門から宝琳院は見放され、鍋島家の援助で何とか続いてたそうな^^;

龍泰寺にあった龍造寺家の墓は、後に鍋島様の高伝寺に移り、龍造寺一門で残っているのは一家だけだそうです。
佐賀市内仏閣は「大人の事情」がいっぱいに・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

さて、オチがついたところで、再び龍造寺隆信編へ戻りたいと思います。
隆信排斥派を内部に抱え波乱の宗家当主就任でしたが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: No title

> 少弐与賀城
そうなんです。
でもって与賀城を知ってる人は、けっこうなマニアですね^^;
遺構や案内板とかなくって、与賀神社の由緒くらいしか一般には公開されてないですから。

> 毎年、大隈重信の法事があっています。
そうなんだ~
現代じゃ、大隈重信公の墓あるよ~~としか印象ないでしょうね。
龍造寺家の墓は、鍋島家が高伝寺を建立した時に移しちゃいました。
ただし龍造寺一族で一家のみが、現代も菩提寺として残ってるそうです。

てことで、与賀城の遺構発掘は無理だろうな~il||li _| ̄|○ il||l
寺院自体も江戸期に火事で焼失して再建してるから、史料的なものも期待できません^^;

No title

龍泰寺はは少弐与賀城のあとなんですね。
毎年、大隈重信の法事があっています。
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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