FC2ブログ

北肥戦誌【1574年】その2

松浦・草野を従えた隆信は、龍造寺家秀・高木胤清・石井忠家・神代家利・武藤左近将監らを、鏡・天河・大河野の城へ残し置き、
自らはまず多久城まで馬を入れ、しばし逗留の後に、女山一揆の棟梁・鶴先源太左衛門の残党を残らず退治する。


この年の夏、西肥前は塚崎の後藤貴明と、その養子(実父は松浦隆信)である後藤惟明との戦いがあった。

貴明は惟明を養子とした後に、実子の甫子丸(後に後藤清明)が誕生し、先祖代々惣領に伝えるべき太刀などを貴明が甫子丸へ渡した事から生じた確執であった。

6月22日に惟明が、塚崎の二の丸にて謀叛の意志を皆に伝えるが、たまたまそれを盗み聞いた者により貴明に露呈、隔して翌日より惟明は二の丸へ籠り戦となったものである。

7月初旬、惟明は龍造寺家に支援を乞うた。一方、貴明も龍造寺家へ支援を求めた。

その頃、隆信は、須古の平井家が尚も異心あるを覗かせ、これを退治すべく杵島郡へ出馬していたのだが、
双方からの支援要請を取り次ぎの勝屋勝一軒から同時に聞く事となった。

隆信は何れに味方すべきか思案に暮れ、評定の末に貴明に味方すると決した。

小河信貫・納富信理(後に能登守家理)・執行種兼に2,000余騎を率いさせ、貴明への合力として宮野へ差遣した。

その後、惟明は一戦に及べども打ち負け、先非を悔いて貴明に降参した。

宮野での評定では、不孝の者の見せしめと捕えて処するべきだとの声が上がるが、一度は父子となった者なれば努々殺すべからずとして、貴明は惟明を平戸領の早岐へ送った。

惟明に与した者は、或る者は惟明に従い、或る者らは鍋島を頼って佐嘉へ住し、或る者らは浪人となった。

貴明は隆信へ加勢を謝して、以後別心あるべからざると堅く約束した。

さて平井攻めであるが、隆信は既に7月27日に佐嘉・小城の士卒を派し、白仁田山に陣を布かせていた。

平井経治はこれに、不意を突いて隆信の陣を打ち崩さんと、8月2日に弟の平井直秀・川津経忠ら多勢を率いて、龍造寺の陣近くへ進む。

龍造寺の陣場は岩が高く聳え、急に降る事が叶わず自由に動けない場所であった。

平井兄弟はこれを見量り、佐嘉勢を一人も残さず討ち取るべしと所々に備えを設け、正に切り掛からんとしていたが、夕刻が近付いた為に進軍出来なかった。

これを龍造寺先鋒の信生が察し、隆信へ使者を遣わすと、
「敵は間近まで押し寄せておりますが、日暮れに及び明日の戦まで待機して居る様子。ならば此方からすぐさま打って出るべきでしょう」と述べた。

隆信は同意し、使者が帰る間を惜しんで貝を鳴らさせる。

信生はこれを聞くと、すぐさま采配を掲げて、十丈程の岩石を一斉に押し下させると、平井の陣へと切り掛かった。

平井も軍兵を励まして戦うが、後陣の佐嘉勢が先陣へと続き、平井は川津経忠を討ち死にさせるほどの敗軍を喫して、悉く須古へと退いて行った。

ただ唯一、残兵一列が久津句の山上にあって退かなかった。

信生は、「この敵を追い払わねば、始終の勝利はない」と8月8日に久津句へ鬨を発しながら進軍、これを敗走せしめて小塚口まで追い掛けた。

これに平井勢は取って返して戦う。

これに龍造寺家晴が加勢に加わると、平井勢は打ち負けて高岳城へと逃れた。

隆信は久津句へ陣を移すが、周辺豪族らがこれに参じて、軍勢は次々と膨れ上がった。

猪熊へ出陣していた後藤勢はこれに恐れを為して、塚崎へと退いて行った。


その翌日、隆信は高岳城を攻めよと命じる。

だが、宿老らがこれを諌め、「長陣に御座れば士卒は皆疲れて、領民も働き通しに御座います。まず御馬を佐嘉へ帰され、平井征伐は又今度と致しませぬか」と述べる。

これに信生は「いやいや、この機に乗じて西側の敵を悉く退治されるべきでしょう。国家静謐の為なれば、士卒や領民とて労を厭いますまい」と反論する。

隆信は信生の申す通りと、横辺田に陣を布いた。

だが、平井の高岳城は要害であり、平井経治も音に聞こえた勇将である為、容易には落とせないだろうと思われた。

これに信生は、経治の弟・直秀を自陣へ招き囁くと、
「御辺は経治の兄弟では御座るが、先年の和平の折、龍造寺家の婿となり、既に一子が生まれておりますれば、正しく龍造寺の親族に御座います。・・・経治殿を殺されよ。その上は須古領を残らず御辺へ進ぜ、高岳城へ安堵致しましょう。只今の様に隆信へ背き続けるならば、御辺の命を奪い、平井が家をも滅ぼすまでに御座いますぞ」と謀略を仕掛けた。

直秀は信生へ反論もせず、急ぎ高岳の向かい男島へ帰ると、密かに平井家臣を集めて、件の陰謀を述べて皆への加増を約すれば、殆どが直秀に同意した。

直秀は信生へ起請文を提出、一味と共に経治を討たんとした。

経治は無念に思いつつも力及ばず、川津近江守ら以下男女180余人を連れて高岳城を去り、藤津の吉田へと落ちて行った。

隆信は大いに悦び、須古・高岳の城を直秀に与え、納富信景を横辺田へ残して、自らは佐嘉へ帰陣した。




松浦にも隆信がいるから、解りづらい~~

スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
779位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
122位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR