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【登場!龍造寺隆信】龍造寺隆信「叛」の巻

軽くおさらい^^

1548年・天文17年3月22日、龍造寺村中宗家当主・胤栄が、卒去した。
胤栄には娘しかおらず、一門・重臣が相談した結果、水ケ江当主・胤信(隆信)を胤栄未亡人と再婚させて当主とする事に決した。

胤信(隆信)当主に不満と持つ村中龍造寺家臣・土橋栄益は、胤信(隆信)の従兄弟叔父にあたる鑑兼を対抗馬にと目論んでいました。

ちなみに、従兄弟叔父(つまり父の従弟)って言っても、まだ数え7歳でちゅ~

家系図・龍造寺系図①

肥前の熊の若き頃・・・龍造寺一門筆頭は龍造寺家親(`・ω・´)キリッ
系図にある黒ライン~~村中宗家正嫡・胤家系の家老です。

肥前千葉氏が東西に分裂しなければ・・・少弐が平常運転で没落しなければ・・・胤家系が龍造寺宗家の嫡流でした。
少弐没落の巻き添えで胤家は肥前を出奔しちゃったんです。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

当時・13代目康家は存命だったらしく、息子の出奔に隠居から現役に復帰。
次男の家和に家督を相続させた。

数年後に胤家は肥前に戻ったのですが、既に相続から外されていたので胤家系男子が当主に返り咲く事はなく、そのまま一門&家臣化していきます。
胤家の養子・盛家ですが、高木家からの養子だったようです。

少弐の裏切りと陰謀で、龍造寺一門の多くが謀殺されましたが、集中的に狙われたのが剛忠(家兼)の水ケ江家。
系図青ラインの家純・周家・家門・家門男子が亡くなってます。
水ケ江の人的損失が、あまりにも多きすぎました。

村中宗家と水ケ江家が合一したといっても、龍造寺内部の派閥勢力としては村中の方が優勢だったんです。
家老の家親は、世が世であれば当主だったかもしれない人物(兄は若死にしてたらしい)
まだ二十歳そこそこの胤信(隆信)では、家親をコントロールするどころか、彼の意向を無視できない状況だったと思います。

須古・諫早・多久・武雄・・・龍造寺四家が、一門の中心となるのは後年の話で、それには胤信の弟たちの成長を待たねばならない。

1550年・天文19年7月1日、胤信は大内義隆の偏諱を受けて《隆胤》と改名
同年7月19日、隆胤から、皆様お馴染み《隆信》と改名した


まだまだ不安定な胤信(隆信)当主体制。
大内義隆のバックアップを受ける事にしたぉ~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

名前を二回変えているのは、今までの胤信の「胤」が西千葉・胤連からの偏諱で、それに配慮したんだと思います。


さて、隆信が足固めしてる頃・・・少弐冬尚も活動を再開。
1548年に村中当主死亡のドサクサ紛れに、ちゃっかり勢福寺城に復活(=^・ω・^=)v ブイ

勢福寺城は大内に接収され、城番として元少弐家臣・江上武種が入っていました。
冬尚は夜に勢福寺城へと忍び入ろうとしたが、この日の番将・光安忠三郎の奮戦によって阻まれた。
ところが肝心の城将の武種自身が城から兵を退き、冬尚に城を明け渡しちゃった。

江上武種・・・身は大内に降伏しても、心は少弐の元に置いたままだったのだろう。

さて役者は揃った~~と言えばカッコいいが、元の木阿弥と言えば心の疲れが倍増(爆
龍造寺隆信には更なる試練が襲うのだが、それは・またの話 by^-^sio

次回「激震・大寧寺の変!」
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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