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【熊が川でドンブラコ?!】龍造寺隆信「叛」の巻3

さて、鍋島清房の次男・彦法師丸(後の直茂)は千葉胤連の養子となっていました。
1551年14歳となっていた今年、養父胤連の元を辞して、本庄の館に入った。

実家に戻ったら龍造寺が一大事で驚いただろうなぁ( ̄ω ̄A;アセアセ


一方、佐嘉城を落ち延びた龍造寺隆信一同は、とりあえず南方の井尾村へ至ったが、そこから行く宛が無かった。
これを伝え聞いた筑後柳川城主・蒲池鑑盛は急ぎ堤津へ遣いを出して「弓取りは皆同じである」と、隆信一行100余人(80余人とも)を柳川領の三瀦郡(みずまぐん)に迎えた。

隆信は蒲池鑑盛の援けにより、かつて剛忠(家兼)が亡命してた時に住んだ一ツ木村(大川市)へ移ると、原恵俊(原野兼俊とも)の屋敷に住んだ。


明けて天文21年(1552)になると飢饉が発生し、10人に8人の領民が餓死するという状況に!(゚ロ゚屮)屮
一ツ木村に逗留中の隆信らも次第に食糧が乏しくなっていった。( ̄ω ̄A;アセアセ

これに福地信重は、福地太郎左衛門と小林播磨守を召して肥前へ渡海し、船津の郷長・村岡藤七兵衛の屋敷に出向き兵糧の加勢を願い出た。

皆さ~ん、くどいようですが、戦国時代と現代では有明海の海岸線が違いますからね~
大川市だと、戦国時代なら船で肥前側に移動した方が早いんですぅ~~


前から続く
村岡はこれを承諾、兵糧を積んだ船を商売船に仕立てて、世間には天草へ行くと申したてながら、一ツ木村へと送り届けたのである。
(村岡グッジョブ!)

地図・東肥前

船津・・・また新しい港が キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★←ヤケクソ

え~~おおまかな概念ですが、○津ってある地名は港か入り江か、とにかくソレ系?の土地でして^^;
この船津の位置データは現代ですと佐賀県佐賀市東与賀町になります。
戦国時代だと川副郷に入ると思います。
船津は地図に載せきれなかった八田江川の河口港(戦国当時)です。
場所は海岸線沿いに石井氏飯盛城と川副の間・・・川副寄りにあります。


現代地図だと佐賀県道48号線を辿ると地名を探しやすいです。
相応津(48号線起点付近)から県道を東に行くと船津新橋東に出ます^-^
船津も、けっこう範囲広いので(西船津とかある)その中の何処かまでは、さすがに特定無理でした^^;
もしかしたら佐賀県道48号線が、戦国当時の海岸線の目安の一つになるかもですね(^ -)---☆Wink



また同年に、旧臣・鴨打胤忠が自らの領地である蘆刈へ隆信を迎えようとの動きを見せた。
鴨打胤忠が一ツ木へ船を差し向けると、隆信はヽ(*´∀`)ノ大いに喜悦し、家中の男女連れ乗船し渡海した。

だが天運未だ至らず、俄かに暴風に見舞われて、船は柳津留(小城市牛津町砥川)の入り江に迷い込んだ。

柳津留・?・・・|グーグル|_ ̄)じぃー

牛津の柳津留って、柳鶴じゃん!Σ(´Д`;) 
どんだけ奥まで迷い込んでるんですか~肥前の熊さん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


戦国当時で入り江って事は、こりゃ牛津川のあたりも、現代と戦国時代じゃ海岸線違うっぽいな(泣
とにかく少弐実弟が城主の牛尾城まで1~2kmしか離れてないし、それ以前に!
「そこ(柳津留)は杵島郡の有馬領である。by北肥戦誌」ですな( ゚Д゚)y─┛~~

鴨打胤忠の別腹の兄・胤賢は弟と不仲だった。
胤賢は、隆信漂着を知ってこれを討ち取らんと迫る。

アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ うあぁ~~引き返せ~~~!!

隆信らの船は、何とか柳川へ漕ぎ返し事無きを得たのでした( ̄ω ̄A;アセアセ
なかなか思うようにならない状況に、だんだん豪胆な隆信も焦れてきたのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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