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【ならぬものは、ならぬのです】龍造寺隆信「叛」の巻4

1552年&天文21年~龍造寺隆信が有明海をウロウロしていたのと同年。

7月9日夜半の事だ。
有馬勢が小城へ乱入し千葉領を犯した。
千葉勢はこれを追い帰すも、仁戸田刑部大輔が波佐間村で討ち死にした。


仁戸田刑部大輔~苗字は「にへた」です。
肥前千葉氏の九州下向時に随行した譜代の家柄。
※「徳嶋氏系図」だと天文16年8月3日に久米塚(小城市)で戦死したことになってます^^;

波佐間村~~波佐間で地名検索すると千葉県HIT、千葉氏本家由来かとビビった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

波佐間⇒×ブゥーー
羽佐間⇒○ピンポーン

位置データ:佐賀県多久市東多久町大字別府羽佐間
(佐賀県道332号と同じく35号の分岐点周辺)

地元周辺地理より佐賀県に詳しくなってきてる今日この頃,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

地図・東肥前

(*´○`)o¶~~♪「ご乗車?の皆様、左手・牛津川を御覧下さい~」

牛頭山城、晴気城、牛尾城、持永城、さらに海沿い蘆刈のあたりまでが、現在の小城市になります。
(山は天山、川は牛津川、祇園川、嘉瀬川の祇園川主流部分が小城市に入る)
で小城市を抜けて川なりに上流へ行くと、山(茶色ライン)の前で、ちょっち西へ川が蛇行してます。
そのあたりが現代の多久市です^-^

有馬氏の最盛期を築いた有馬晴純は、この年に70歳で息子に家督を譲り、悠々自適のセカンドライフに入ります。
ただ7月時点で隠居か現役かまでは、調べきれませんでした^^;

六角川の枝毛・・・もとい、支流が牛津川。
島原半島を本拠地にする有馬氏は、この六角川流域まで勢力範囲を伸ばしてました。


そして多久市・・・ここも既に有馬勢力圏です。
多久市の多久氏・・・彼は有馬からの圧迫に抗しきれず、少弐から寝返り有馬に誼みを通じた(=配下になった)
年代は北肥戦誌だと1541年になってます。

少弐が衰退したのもあるけど、何より多久氏は肥前の西と東の境目にあるため、大物たちの動きという大風に木の葉の如く揺れざるを得なかったんです。。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

牛津川下流の晴気城&牛尾城、現在は東千葉(少弐実弟が当主)の城。
つまり龍造寺潰しで有馬と手を組んだ少弐エリア。
従って牛津川流域が、有馬と千葉氏のガチ境界線

有馬勢には、断じて牛津川を越えさせてはならない!
ならぬものは、ならぬのです(`・ω・´)キリッ
龍造寺が佐嘉城を追われたために、牛頭山城の西千葉は孤軍状態。
譜代家臣・仁戸田は命を賭して、防衛ラインを守ったんでつ (゜-Å) ホロリ

家紋・肥前千葉 肥前千葉家紋ロゴ

明けて1553年。
龍造寺隆信は未だに筑後・一ツ木(大川市)で居候なぅ。

肥前に「いつ帰るか、今でしょ!」それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: No title

龍造寺村です

正確に言うと鎌倉時代に佐賀郡小津郷龍造寺村の地頭になったのが名前の由来

会津に預かりになったのは龍造寺隆信の曾孫ですね。
肥前は龍造寺のものだ~~って空気読まずに御家再興運動して会津預かりになったんです。
一族と代表である龍造寺四家は、鍋島支配体制に組み込まれてて、いまさら蒸し返されて困るし激怒。
隆信曾孫とは絶縁宣言したそうです。
隆信曾孫の末裔は会津藩士として残り、たしか現代は関東のどっかにいたはず。

>大阪に竜造寺町

あぁ、こっちは屋敷跡です。
豊臣政権時代に、そのあたりに龍造寺家の屋敷があったそうですよ^^

No title

竜造寺というのはやはり佐賀に竜造寺というお寺があったからですか?竜造寺村ですか?会津などは、預かりになって佐賀から転居したんですね。大阪に竜造寺町というのがあるようですが、関係ないのでしょうか?

Re: No title

あ、こっちのコメを読む前に返信しちゃった^^;

>石井が千葉氏の家臣でともに下向してきて

ちょっぴり違う。
肥前千葉は鎌倉期に下向
石井氏は室町期に下向

石井氏は肥前千葉の本家・千田千葉氏(千田庄)に仕えてたんです。
でも下総千葉氏との宗家の座を巡る争いに主家・千田千葉が敗れ、それで新天地を求め伝手を頼ってはるばる九州へ引っ越したんです^^

そこから先は、言われる通りです。

鍋島直茂と正室・彦鶴姫(石井氏)は、戦国期には珍しい恋愛結婚。
名のある戦国武将で、結婚前デートの逸話があるのは、けっこうコアです。
ですが鍋島家にとっては石井家の力が魅力だったのは間違いないでしょう。

武雄龍造寺と千葉氏の勢力範囲

江戸時代は武雄領主は竜造寺系だと思いますが(略

武雄龍造寺の祖は龍造寺隆信の三男・家信です。
武雄は元々、後藤氏の勢力エリアでしたが、戦国期に衰退し龍造寺に援助してもらう代わりに隆信の息子を養子にしたんです(させられたが正解だけど)
以来、龍造寺四家の一つとして江戸期も続きました。

千葉氏エリア
本城:千葉城(別名・牛頭山城、祇園城)
位置:佐賀県小城市小城町
現在の千葉公園が城跡で、須賀神社は千葉氏が京都祇園社を招聘したものです。
最盛期エリア:小城郡、佐賀郡一部、杵島郡一部

他の地域は知らないですが、九州は鎌倉期に下向した武家が多いですね^-^
そのため下向した御家人たちは、土着勢力との軋轢があったりと、勢力構図は複雑かも^^

No title

千葉氏のところを読みました。小城のあたりが本拠地ですか。
流れも少し理解できました。
むずかしいですね。
石井が千葉氏の家臣でともに下向してきて、竜造寺 鍋島は
ともに佐賀の豪族で、千葉氏の家臣から、だんだん力を持ち
鍋島は石井と縁組し力を得たいと思ったと。

No title

わかりやすかったです。ありがとうございます。
違っていたらすみません。千葉氏は今の武雄あたりに勢力があったのではないですか。江戸時代は武雄領主は竜造寺系だと思いますが、千葉氏の流れなのでしょうか。

日本全国って、今みたいに交通機関が発達していなくても、あっちこっち転居しているんですね。

千葉氏と龍造寺

凄い簡単に言うと主君(千葉)と被官(龍造寺)です。

肥前千葉氏の歴史は、当ブログのカテゴリ「肥前千葉氏編」で記事にしてますが、メチャクチャ端折って説明しますね。

在郷の実力者は龍造寺の方です。
九州へ下向したのは肥前千葉氏の方。

千葉氏は千葉県(下総)の千葉氏で、嫡流・千田千葉家の庶流が肥前千葉氏です。
下向したキッカケは鎌倉時代の元寇。
モンゴル兵と戦うために、九州に所領を持つ鎌倉武士が動員され、千葉氏も出陣しました。

で、千葉氏は下総へ帰れなくなった^^;
モンゴル兵が、また来るかも~~てことで、そのまま駐留を命じられ鎌倉府に下総へ帰る事を許されなかったんです。

やむなく千葉氏は肥前に土着しました。
千葉氏は肥前で隆盛を極め「肥前国主」とまで仰がれるほどでして、その千葉氏に仕えていたのが龍造寺家です。
肥前千葉氏の勢いは凄かったんです。肥前で千葉氏家臣でなかった豪族を探す方が難しいと思います。

ところが中国地方・大内氏と少弐氏から、何度も家督相続に介入されたせいで、千葉氏は西千葉と東千葉に分裂します。
衰退した千葉氏は、台頭してきた龍造寺と、初めは同盟関係で、やがて龍造寺家臣団に組み入れられます。
龍造寺が衰退すると千葉氏は鍋島家臣となってます。

というのが室町~戦国初期まで100年分をザックリ説明した流れです。

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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