【追撃!若熊三兄弟・後篇】龍造寺隆信「叛」の巻8

いろいろあって久々の更新です^^;

ふと考えたけど、剛忠(家兼)は自分亡き後の水ケ江家に村中宗家が介入してくるのを嫌ったのかもしれない。
(当時は宗家当主が若くして&男子がないまま亡くなるなんて想像も出来なかっただろう)
だから慶誾尼(宗家姫君)を生母に持つ隆信を出家させたのかな~って。

それはさておき、長子相続が確立する以前は、嫡子(生母が正室)の上に年長の庶兄がいる事は珍しくなかった。
そのために庶兄と弟嫡男とが家督を巡り子の代に亘っても争う事がしばしばありました。

隆信にとって幸いしたのは、隆信が嫡子であり同時に長男だったことです。
少弐の陰謀により祖父・父・叔父・従兄と係累を一気に失った隆信にとって、自分を支えてくれる弟達の存在は他家の弟より比重が大きかったと思います。

長男・龍造寺隆信、早生まれなんで、1553年の現在は25歳
次男・龍造寺左馬頭信周、推定数え19歳(異説あり)兄と弟とは異母・・・つまり彼だけは庶子でした。
三男・龍造寺兵庫頭長信、推定数え15歳


1553年10月8日、龍造寺勢は少弐サイド・小田政光の蓮池城を攻撃した。

城主・小田政光は押され気味であるのを悟ると、一門の者ら郎党200余人を左右に従え、龍造寺旗本勢に討って掛かった。

ぅお!(゚ロ゚屮)屮 城主だ!VIP(小田家一門)勢ぞろいだ!手柄だ~~~
隆信の旗本勢のうち、川副衆南里一族が飢狼のように小田勢に食らいついた。

南里等は小田一族を討ち取ったのだが、南里左馬大夫は深手を負い、残る一族3名と手勢30名が討死。
福地信重(家老)も一族を率いて戦い、膝口を槍で突かれ肱肩を三ヶ所射抜かれる。
秀島主計允も鉄砲に当たる。

あり?
肥前で鉄砲が使用された最初の戦って神代との戦いってのが通説なんだけど???
鉄砲と記述されてるけれど、いわゆる火縄銃ではなかったのかもです^^

家紋・竜造寺 龍造寺家紋ロゴ

一方、一進一退の様相に・・・肥前の熊さんが飽きてきたみたいです。
元僧侶ですから、お行儀良いので欠伸はしてないです。
( ̄ko ̄)<でも、ちょっと退屈してきたみたいですよ。

主君の様子に気づいた倉町信家(不味い!士卒に隆信さまの惰気が移るΣ(´Д`;))
彼は機転を利かせ、濁り酒を隆信に勧めた。

「ぶは~~~~」酒でテンション上がった隆信は、気を滾らせ采配を幾度も振るった。
その様子に龍造寺勢もファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!
そこに何故か遅れてきた鍋島勢が加わる。

奮起した龍造寺勢は少弐が援軍に送り込んだ犬塚勢を蹴散らしo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
小田兵も次々討ち取る バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!
ほうほうのていで蓮池城へ帰還した小田政光は降伏を申し出た。

隆信は小田政光の降伏をなかなか信じなかったそうです。
馬場頼周が強烈で忘れられてるんですが、実は少弐冬尚に龍造寺を一番最初に讒言したのは小田氏なんです。
隆信「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.小田は龍家を傾けし家なり、城中へ攻め入り首を刎ねよ!」と命じた。
老臣たち「ちょっと待った~~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ」
「これは征伐の初めなれば、和平に応じ給わねば国中の者共は、以後降参しようと致しませぬ」(-人-;)オネガイヤメテ・ソレホントヤメテ

と諭したので隆信も降伏を受け入れると村中城へと戻った。



さて隆信排斥派が擁立した水ヶ江城の鑑兼クンは小城へ蟄居を命じられました。

鑑兼クン「僕、まだ12歳です。排斥派に利用されただけで、彼らの叛意は知らなかったんでつ。お願い許して(;;)」
と先非を悔いた為、後にその罪を許され帰国しています。

隆信が筑後へ亡命する羽目になった元凶・・・
隆信排斥派・土橋加賀守栄益は捕縛されて首を刎ねられ、土橋の相談人・西村美濃守は罪を許された。

以後、隆信は納富道周(栄房)、小河武純、江副久吉を執権と定め、水ヶ江を隆信の弟・長信の所有とし、その与力には石井兼清を尾張守に任じて、福地蔵人助、吉岡蔵人と共に付属させた。




一応の落着を見た隆信排斥運動。
この時に活躍した者たちは、隆信の腹心だったり旗本勢として活躍する者たちのはずだった。

だが亡き剛忠(家兼)が目をかけてきた者たちの中に、少弐へ寝返る者が出るのだが、それは・またの話 by^-^sio

これにて叛の巻終了~次回より連の巻です^-^
スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

Re:肥後もっこす様

こんばんは^^

記事を読んで下さりありがとうございます^^

佐賀龍造寺は一時北肥後まで伸びる勢いだったので、鹿江一族も熊本に土着する可能性はなきにしもあらずだと思います。

コメントありがとうございました。

鹿江姓について

こんにちは。私の先祖の先祖は鹿江姓で熊本県に住んでいました。19世紀に庄屋を務めていたようですが、武芸に励んでいたようなので、もしかしたら昔先祖が武士だったのかもしれません。
(曾祖母の家系は細川藩士なので)
佐賀藩の鹿江氏ともしかしたら関係あるのかもしれませんね。
でないといきなり鹿江姓を名乗るのは憚られますからね。
サイト興味深く拝見しました。
有難うございました。

Re: 鍵コメさま

初めまして

> 南里から鹿江氏へ養子を出して家督を継いでいる例もあります(鹿江遠江守)。

鹿江遠江守兼明のことで宜しいでしょうか?
神代勝利の嫡男・長良の妻が鹿江遠江守兼明の娘です。
二人の間には男子がいたのですが、残念ながら若年で病死しました。
神代氏自体の家は続いてますが、鹿江氏(南里養子?)からの血筋は、この男子病死で絶えてます。

> 天文22年前後から系図から鹿江氏の名が見えなくなっているので、そのあたりで滅ぼされてしまったのでしょうか?

自分の手持ち史料ですと、ざっと見た限りでは、鹿江氏については これ以上はないみたいです。

> 今山の合戦では生き残った南里一族が参戦していますが、やはり何人かは戦死しており、それ以降、江戸時代には姿を消しています(ずっと手明槍)。

歴代鎮西志によると、朝鮮の役に南里助左衛門が渡海従軍してました。

> 家紋が日足紋なので、龍造寺氏に忠誠を誓ったまま鍋島氏に冷遇されたのかもしれません。何かご存じですか?

冷遇されていたかとかは判らないです。
ただ朝鮮の役先陣で活躍した南里姓の者がいるので、家紋だけで南里一族全てがハブられるとは考えづらいです。

あと史料検索の方で調べてみたら多久のほうに南里姓(百姓除く)の方がいます。

以下「人物名、史料名、該当頁」
1)南里三郎右衛門隼人助嫡男 三郎右衛門、佐賀藩多久領 古文書に見る地域の人々、408頁
2)南里茂信の通称 三郎左衛門、多久市史人物編、163頁
3)(南里国有の)子 信有、地域別肥前戦国合戦記(上)佐賀県分、50頁
4)南里(なんり)、祐徳稲荷神社史乾、368頁
5)南里嫡子式部佐衛門、佐賀藩多久領 古文書に見る地域の人々、408頁
6)南里三衛門、多久市史第1巻自然古代中世、887頁
ちょっと南里だけで検索したら大量に出たんで、このくらいで^^;

1と2の人物が同一人物なのかは、本の内容を見てないので判らないです。
少なくとも2の南里茂信は鍋島直茂または勝茂から偏諱を受けてますね。

で、多久関連がHITしたので思い出したんですが、龍造寺四家の一つである後多久氏と川久保の神代鍋島氏は縁戚関係なんです。
江戸期に入ると専門外なんで史料が無いんですが、類推できる流れとしては

【南里⇒鹿江へ養子入る⇒鹿江養子娘が神代妻⇒病死で直系絶えるが、鍋島から養子を迎え神代家は残る(家老格)⇒江戸初期に多久と縁組】

この流れの中で、南里一族の生き残りが多久家に仕えたんじゃないでしょうか。
他県在住なので自分では佐賀県立図書館にある郷土資料は借りることが出来ません^^;

ただ、佐賀郡のほうだと江戸期は南里村の領民の記録がメインになると思います。
系譜を辿るなら多久に仕えた南里一族がヒントになるかと思います。
この程度しか出せなくて申し訳ありませんが、宜しくお願いしますm(__)m

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

Re: No title

その家はデータないです。

自分が知ってる範囲での、龍造寺家臣団と肥前千葉一族関連には見当たらないです。
もっと詳細な郷土史データでないと。。。ネット上では探せそうにないです^^

!(@@)

その名前を何かのデータで見たことあります。
人名じゃなく地名だったような・・・

【PC】___φ(.. )カタカタ 検索

あった!やっぱ元々は地名だ。
神埼郡常富庄嘉村~山内の神代勝利を調べてて見たんです。

所縁の人物がいます。嘉村備後守。
逸話はコチラです
http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=2764

嘉村一族の子孫か、その村出身の子孫かもですね。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

Re: No title

本行寺に所縁がある佐賀藩士の家系でしょうか^^

胤家系は世が世なら・・・って系譜ですから、肥前戦国ファンとしてはロマンを感じてます。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

No title

その方は佐賀藩士の子孫で、しかも竜造寺胤家のお寺 本行寺に
多大のお金の寄進をした家だそうです。
しかし胤家の子孫というわけでないので、竜造寺の家臣かもしれないが、親族というわけではないとのことでした。
二男が後を継ぐというのは、私も面白いと思いました。すべてではないと思いますが、結構多いそうです。

家紋

次男が家督をですか?
それは知らなかったです。

>十二日足

いま少し検索したら北九州に多い家紋らしいです。
肥後守護職・菊池氏が用いていたことがあるそうで、その関連かもしれませんね^-^

No title

佐賀では2男が後を継ぐケースがとてもおおかったと
聞いたことがあります。

昨日、久しぶり会合で、佐賀に行き 知人に会いました。
家紋がなぜか十二日足だそうです。
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
583位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
90位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR