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【肥前の、魔界転生!?前篇】龍造寺隆信「連」の巻2

さて、鹿江氏と神代氏が縁戚となった1554年3月の事。
龍造寺隆信は「高木鑑房を征伐すべし」と出兵した。

高木鑑房(たかぎ あきふさ)1504年生まれなので、この時は満年齢50歳。
龍造寺とは同族で、隆信と鑑房は・・・遠縁・・・ってことになるのかなぁ

家系図・龍造寺系図①

久々登場の龍造寺系図~黒文字部分に注目^^b
14代目胤家の養子に盛家という人物がいたのですが、盛家は高木家からの養子でした。

んで、高木鑑房は盛家の息子じゃなかろうか~と言われているんです。
で、鑑房は家督の都合か龍造寺家には入らずに高木家に残った(らしい)

実は龍造寺盛家は少弐の龍造寺潰しの罠「偽りの有馬征伐」に出兵し討死してるんです。
だから少弐冬尚は高木にとって実父の仇・・・のはずなんだけど。。。そんな雰囲気ないのよね^^;

少弐配下だった彼は、少弐資元が自害すると浪人し、一時大友家臣となった。
で、当時の大友当主・義鑑から偏諱を受けて鑑房と名乗ったんです。
一介の浪人に偏諱するなんて、高木は余程力量を買われていたんだろうか(-ω-;)ウーン

北肥戦誌によると高木は魔法使いだったらしい( ゚д゚)ンマッ!!

この鑑房、勇力万人に優れ、早業は江都公主の素早さをも超越し、打物は樊噲・長良にも恥じず、その上に魔法を習得しており、或る時は闇夜に日月を現し、或る時は酷暑に雪を降らせ、大空に立って大海を飛び、断じて凡夫ではなかった。

大友義鑑の前で超マジック・ハンドパワーしたのかな?(*´pq`)クスッ

少弐冬尚が御家再興の旗を揚げると、高木は肥前の旧領に復活し少弐配下に戻った。
で、例の隆信排斥派に加担したんです。

1553年に隆信が筑後から肥前旧領へ復活した時に、高木は敗れて自領にヒッキー・・もとい戻った。
隆信にしてみれば高木を捨て置く事が出来かねたのだろう。

やっぱ征伐!と兵を起こした。

高木鑑房は龍造寺勢が押し寄せると聞くと、急ぎ軍勢800を出して三溝口で打ち合った。
三溝は村中(佐嘉)城から北へ2km弱離れた地域で・・つまるところ現代の佐賀市内。

佐賀市が広大なのか、戦国時代の佐賀市が戦闘密集地域なのか、
道産子の自分には実際の広さが感覚としてワカラン(爆

そのとき、龍造寺勢より齢16-7の若武者が討ち出て、鍋島信昌と名乗った。

家紋・鍋島 鍋島家紋ロゴ

この若者こそ後の佐賀藩祖・鍋島直茂、その人です^-^

(信昌は)唯一騎で前に進み出ると、千変万化の活躍を見せた。
北肥戦誌の記述が簡素すぎる。。。il||li _| ̄|○ il||l

実はシオは、これが殿の初陣かと早とちりしてたんです( ̄ω ̄A;アセアセ
殿の初陣は前年の小田政光との戦いの時だそうです。

殿は西千葉に養子に入り、養家で実子が産まれた事もあり、14の時に実家の鍋島家に戻ってました。
で、その後は梅林庵(佐賀市本庄町大字本庄71)で___φ(.. )カキカキ と修学してたそうな。
初陣の時は、この梅林庵から出陣したとか。

そういや、小田攻めの時に鍋島勢が何故か遅れて来たんだっけ。
殿と合流したりなんだりで時間くったのかもですね^^

高木の魔法は実戦の役には立たなかったらしく、敗れた彼は息子を人質に出して降伏した。
鑑房は杵島郡・佐留志城主・前田家定を頼ったが、鑑房の後の行状に不安を感じた隆信は、前田家定を籠絡し鑑房を討ち取らせる事にした。

魔法・・・ハリポタで駄洒落したいが浮かば無ないのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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