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【山内の英雄~神代勝利・参】龍造寺隆信「連」の巻6

山岳地帯の山内26ケ山は、肥前三郡にまたがっている。

神崎山内~三瀬、藤原、久保、腹巻、鹿路、広瀬、杠(ゆずりは)
佐嘉山内~関屋、名尾、松瀬、小副川、畑瀬、菖浦、梅野
小城山内~合瀬、藤瀬、古場、無津呂、大野、摩那古、古湯、大串、栗並、波多瀬、杉山、市ノ川

その地に、それぞれ土着の豪族がおり、彼らの総領として推戴されたのが、神代勝利です。

神代三人衆~三瀬・松瀬・杠
神代五人衆~上記三人+菖蒲・畑瀬
神代七人衆~上記五人+藤原・栗並

山内総領として神代の本城は三瀬城なのだが、VS龍造寺への最前線として谷田城が築城される。
三瀬村史を参照しようとしたら、時系列が思いっ切り違った,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

東肥前ぬくもり戦国地図

1553年に筑後から肥前へリベンジ復活を果たした龍造寺隆信。

で、同年に勢福寺城の江上武種(少弐サイド)が、隆信の勢いに押され和睦する。
三瀬村史によると、その時に先に和睦した江上の仲介で、神代勝利も隆信と和睦したらしい。
らしい、というのは北肥戦誌には江上の降伏記述はあるが、神代には触れてないからなんです。

三瀬村史は、村史として全て残すぉ!(`・ω・´)キリッ
という村史ならではの主旨から、伝承・伝記の類も盛り込んでるので、玉石混合な部分があります。
とはいえ神代勝利の伝記としては、これ以上詳細なものは無いと思います。
そこで時系列が不自然なもの以外は、基本として採択したいと思います。

1554年10月15日、龍造寺隆信は綾部城にいた少弐冬尚を攻撃~少弐は肥前山浦城へ逃げ込んだ

カテゴリ「地図から見た少弐と龍造寺」にも記述しましたが、綾部城とは一つの城郭のことではなく、幾つかある城郭群の総称です。
少弐のいた「綾部城」は、そのうちの一つ「少弐山城(別名:綾部城)」。

で、少弐が逃げ込んだ肥前山浦城とは、勝尾城(鳥栖市山浦町)の別名^^b
勝尾城って別名が多過ぎてリサーチ泣かせでつ~~(´Д`;)
勝尾城は筑紫氏エリア~少弐は、筑紫を頼ったみたい^^b

筑紫って少弐一門のクセに、しょっちゅう少弐を裏切る困ったさん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
少弐から寝返り、頼った先の大内が陶の謀反でガタガタになったので、やむなく大友配下なぅ~
龍造寺隆信排斥の動きに便乗し、この時期は少弐とタッグを組んでたんです( ̄ω ̄A;アセアセ

で、この少弐攻撃の時に龍造寺隆信は神代勝利にも「先年、和睦の誼み」と協力要請を出した。

人物・くましろん~ 神代勝利イメージ画像

三瀬村史には「再三」とあるので、かなりしつこく言ってきたらしい。
隆信に本心から従ったわけじゃない神代勝利。
自身の出馬を避けて、一族の者に騎馬武者30騎、軽卒合わせて300余人を出陣させた。
神代が少弐に何て言い訳したかは知らない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

で、ここから先が嘘っぽい・・・ゲホグホゴホ・・・もとい伝承っぽい話になる。

何と出陣した300余人の中に、神代勝利の次男が忍んでいたそうな

( ゚д゚)ンマッ!!

父、勝利が承知の上での行動なのか、息子が暴走ヤンチャ君なのか、そこまでの記載はありません。

勝利次男は隙を見て龍造寺隆信を暗殺しようとしてたんです。
無論、本人は事の正否如何に関わらず、死を覚悟してたでしょう。

だが隆信の天運尽きず、また用心が調っていたゆえに、なんたらかんたら~
早い話、チャンスがなかったそうです。

互いに胸中含むところがありながら、表面上は友好関係を取り繕う。
虚虚実実の駆け引きは、この後も続くのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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