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【酒宴/山内の英雄~神代勝利・禄】龍造寺隆信「連」の巻9

出典は北肥戦誌と三瀬村史
三瀬村のゆるキャラが「かつとし君」との最新情報キャッチ~
最新すぎて検索してもHITしない~誰かネットに画像アップしておくれ(-人-)☆彡オネガイ

1555年3月、少弐冬尚は筑紫エリア勝尾城から横岳エリア西島城に移動。
城原の勢福寺城には、引き続き江上武種が在城だった。

2月に歌(神代作詞作曲)で小馬鹿にされて(龍造寺が神代を毒殺しようとしたともある)和睦が破綻した龍造寺と神代勝利。
その神代との和睦を仲介したのが江上だったので、隆信の矛先が江上にも向いた。

で、「江上を攻撃する手始めに」姉川惟安の姉川城が龍造寺軍の攻撃を受けた。
姉川「え?!コッチΣ(´Д`;) うあ゙」

姉川といえば、織田信長が浅井・朝倉と激突した「姉川の合戦」が圧倒的に有名ですが、
肥前の姉川は、川の名前ではなく武将の名字であり、その本城の名前^-^

東肥前ぬくもり戦国地図

書ききれなくて省略した姉川城は、城原川沿いで勢福城のちょい手前にある城。
だから敵が勢福寺城を攻略しようとすれば、必然的にセットで攻撃されるという気の毒な場所に位置しているんです^^;

姉川は400の手勢で抵抗しましたが、龍造寺勢が500で五手に別れて城を猛攻撃。
防戦しきれず止む無く降伏。
姉川勢400は、そのまま勢福城攻撃の先陣(=道案内)へとリサイクルされました♪

北肥戦誌によると神代勝利が江上の援軍として出陣。
勢福城より北に位置する猿岳(神埼市東鹿路)に布陣したとあります。
ただし「神代家伝記」には、その記述はありません。

江上も頑張って抵抗したんですが、龍造寺勢・福重が城の水路から侵入し城内に火をかけた為に防ぎきるのが困難になった。
江上は城を捨て仁比山へと脱出しました。

仁比山は神代がいた(とされる)猿岳とは別方向です。
神代は~というと、一戦することなく山内へと引いたそうです。

勝鬨を揚げて凱旋した龍造寺勢。
だが、このまま大人しく引っ込む神代じゃありません。

3月下旬、神代勝利は山内から龍造寺領の近辺へと打ち出て諸所を放火。
自身の出城である千布の土生島城(千布城)に入った。


左・くましろん/右・くま~
左・神代勝利VS右・龍造寺隆信

隆信は近臣を集め「我ら弓前を執っては向かうところ敵なしなれど、神代勝利は我らの障壁である。奴を討ち取る計略はないものか」と述べる。
これに小河信安が、「彼の神代勝利と申すは機篇あくまで鋭く、前に在るかと見れば後ろに在り、左に現るるかと思わば右に隠れる。されど、私とて劣るべき点は御座いません。よって彼奴を易々と討ち取り、隆信公の御目に掛けましょう」と述べて席を発った。


千布城にいる神代。風雨の強い夜に家人を集めて酒宴をしていた。
侍女の一人が勝利の湯殿へ行ったのだが、息を荒げて走り戻り「湯殿に大男が居る!」と述べた。
どうやって忍び込んだのであろう。大男は小河筑後守信安であった。

神代勝利は「誰ぞ湯殿へ行き、酒宴の半ばであるが筑後殿も参られ酒を呑まれませいと、述べよ」と命じた。

小河は宵に城内へ忍び入り、勝利暗殺を企図していたが見つかってしまい、本意を遂げられなかった。
神代勝利も危うく風呂場で暗殺された武将の仲間入り・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
小河は内心口惜しく感じながらも、勝利の盃を受け勝利へも返杯し、そのまま龍造寺領へ帰った。

他にも勝利は、神代家臣・小副川教実を追放したように見せかけて龍造寺家臣とさせた。
龍造寺で所領まで得た小副川は、隆信の計略を逐一、勝利に報告したそうな^^;

ちなみに小副川教実の谷田城は、江戸期は佐賀本藩の蔵入地だったのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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