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【相良と菱刈と島津宗家と薩州家と~前篇】相良氏、義陽編3

義陽編を始めるにあたり、念頭に入れて欲しい事がある。

相良家と島津家は、元々は友好関係だった・・・という事です。

ところが、その島津宗家と分家が対立し、一枚岩でないために話が複雑になる( ̄ω ̄A;アセアセ
そこに菱刈が ヤポーィ♪ヽ(*´∀`)ノ と便乗するので、更に判りづらい^^;

話を整理しようとすると、文明年間まで遡る。
文明は1469年~1487年までなのだが、薩州家・相良の関わりは1470年代頃だと思う。

1476年3月、相良為続は薩州家・島津国久&豊州家・島津季久の内意により、牛屎院を格護する。
牛屎院とは地名であり、そこを領有していた国人の姓でもある(読み方にビックリ)
本城は大口城・・・・大物同士の係争地で、牛屎院氏は本貫地を守り抜く事が出来ず日向・北原氏を頼ってへフェイドアウトしたらしい。

その北原と相良が抗争に及んだ時、どちらに与するかで島津宗家と分家が揉めた。
薩州家国久&豊州家季久は「相良に味方しましょうよ(*´pq`)ウフフ」だったが、
島津宗家当主・忠昌が、その申し出をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!拒んだ。

実は島津忠昌の生母は家来筋で、父が働き盛りで死亡したため、ただ一人の男子だった忠昌が弱年で家督を継いだ。
生母の家格が低い当主に、分家のオジサマ方が「毛並はウチの方が・・・」と内心不満だったであろうことは容易に想像がつく。

結果、薩州家が挙兵。同時期に豊州家と相州家が謀反。
相次ぐ分家の離反に、忠昌は宗家当主でありながら伊集院への避難を余儀なくされる(´;ω;`)ウッ
謀反鎮圧後も薩州家は半独立状態で鼻息が荒かったが、翌1467年6月27日に豊州初代季久が死亡。
薩州家も島津宗家に帰順した。m(__)mゴメンナサイ

相良氏の方も色々あって牛屎院(大口城)を島津宗家に返還した。

家紋・島津 島津家紋ロゴ

本館と相互リンクしている「戦国島津女系図」で知ったのだが、その薩州家2代目国久の孫姫が菱刈重副に嫁いでいる。
で、菱刈重副の妹と娘が相良家へ嫁ぎ、
で、菱刈重副の息子・重任に相良義滋の娘が嫁いでいる。

薩州家と相良家は菱刈家を通じて縁戚関係となった。(各年度は不明)

菱刈が薩州家と相良両家に縁組する目的は明解だ。
ズバリ「島津宗家配下の国人」という立場からの自立・・・です。

これは、自立心旺盛な国人なら等しく願う事だが、行動に移すには本人の実力の他に、それをバックアップする後ろ盾が必須。
菱刈家は始めパトロンとして薩州家に目をつけたのだろう。

ところが頼れる重鎮・国久の死後に、薩州家は家督を巡って親子(国久の息子と孫)が壮絶なバトル開始。
伊作島津氏と羽州島津氏も巻き込む大騒ぎとなる。
勝ったのは国久の孫・忠興(=^・ω・^=)v ブイ
その後、忠興の子、実久が島津宗家の座を巡って、薩州家は伊作島津と周辺国人を巻き込む大バトル。

ゴタゴタが続くのを見て菱刈は「島津宗家からの盾」として薩州家だけでなく、相良とも同盟関係になることを選んだ。
本音は「島津からの盾」なので、菱刈は相良を兄貴分として立ててたように思う。
少なくとも大口城に関しては、菱刈は相良の配下国人として、その指揮下に入っていたんじゃないだろうか。
菱刈は島津に降伏した後は、迷うことなく相良の保護を求めているので、あながち方向違いの推測じゃないだろう。

そして相良が戦国大名としてクラスチェンジに成功する陰に、島津との友好関係があったのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: No title

こっちは、いまのところセカンドブログだからアクセス数は自然に任せてたんです。

というのも、ここでアップしたあと再編集とか、下原稿代わりにしてることがチョコチョコあるものですから^^;

だから、とうぶんは、このままのスタイルで行きます^^
御心配・お気遣い頂き有難うございました^^/

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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