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【相良と菱刈と島津宗家と薩州家と~後編】相良氏、義陽編4

自立の気配を見せる菱刈に対し、島津宗家・忠兼(勝久)は牛屎院の一部を割譲して懐柔しようとした。
だが自立したい菱刈の方は、貰うものは貰ったが宗家には靡かなかった。

じゃ、相良の方へ(*´∀`)ノ「牛屎院(大口城)あげるよ~」と誘いをかけたが、相良義滋に断られる。
順番が前後してるかもだが、要するに島津宗家は菱刈にも相良にも振られた(爆

自立したがり菱刈はさておき、実は相良の行動には一貫性がある。

1)道理に合わない事はしない
2)肥後守護職に敬意を払い従う

八代・葦北は、相良が強引に奪ったものではなく、守護から貰い受ける形で入手している。
薩州家・豊州家に意向で領有した牛屎院も、前回記述したように島津宗家へ返還しています。
冒頭の話の後、大口城をゲッツしてますが、それは島津宗家から改めて割譲されたものです。

肥後守護職に従うという点では相良は優等生?
肥後守護職・菊池義武が大友家に対し謀反を起こした時も相良家は従ってます。
(ただし最後までは付き合わず、適当なところで距離置いてる)
菊池義武が亡命してた時も受け入れ、大友の引き渡し要求には応じず、最後まで家臣として面倒を見てました。

途中で肥後守護職は大友家のものとなってます。
ですが菊池義武生存中、相良は菊池家を「屋形様(国主への尊称)」と立て続けました。

大友にとっては腹立たしいとは思いますが、常に裏切る危険を孕む国人たちより、
守護職という権威に律儀な相良家そのものには、好意を感じたのでは?と思っています。

そして相良家は敵対する島津宗家と薩州家の、双方から友好関係であることを望まれた。

家紋・相良 相良家紋ロゴ

島津宗家は、薩州家とのバトル・大隅統一・飫肥城を巡る伊東家との確執と問題が山積しており、相良と事を構える余力など到底ない忙しさ。

薩州家も、だんだん伊作島津に押され形勢不利になってきたので、相良が宗家サイドになったら困る。
1538年(天文7)4月13日、薩州家・島津実久は佐敷の仮屋に来訪し、相良義滋と会見している。

相良家文書によると、この時に実久は起請文を提出したらしい。
内容が判らないが、とにかく相良は薩州家と島津宗家のどちらにも与しない事を約したのではないだろうか。
それともう一つの可能性として、天草のことで何か取決めしたのではないだろうか。

相良晴広が天草に介入し、天草から長嶋氏を追い出したのは薩州家・島津実久死後だからです。
もっとも長嶋氏は、出水の薩州家に逃げ込んだので、それはそれで新たな火種にはなってる^^;

「道理に合わない事はしない」
そうした相良家の律儀な姿勢は、近隣諸国から同盟相手として信のおける相手と評価されていただろう。

そんな相良がブレるのは、義陽の代になってからの事だ。
これは義陽の器量の問題ではなく、若年で当主になったことのマイナス面が出た結果だと思う。
実父の晴広か、祖父の上村頼興が、義陽成人まで存命であれば、相良の運命は違ったかもしれない。

そして島津との和睦が破綻するのは、常に相良からの裏切り。
それも義陽が主導的役割を果たしたのではなく、島津主戦派家臣を抑えることが出来ず、振り回された感がある。

義陽自身は、父祖から続く島津との友好関係を守りたかったように感じるのだが、それもイマイチ判然としない (-ω-;)ウーン
相良義陽を見ていると、若年で当主になることの難しさを感じる。
そして心を預ける家臣のいない当主の孤独さも感じる。

だが最期の責任をとるのは当主なのだ。
相良義陽には、戦国武将の悲哀と悲劇が常に付きまとうのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: No title

相良氏の律儀なイメージは、累代の蓄積だったと思います^^

義陽も個人的には信義のある武将だったと思いますよ

No title

相良氏、戦国時代には稀な、仁義ある武将ですね。

相良氏の名前だけは知っていましたが、勉強しました。
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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