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北肥戦誌【1572年】

3月下旬、隆信は再び裏切り者を退治すべく、
(昨年末より三根・養父の者らが少弐政興を擁立せんとの動きを見せると共に、大友へ援兵を乞う動きを見せた)、
嫡子・龍造寺鎮賢(後に政家)と共にまずは神埼郡へ出陣する。

これに参集したのは神代長良の名代・神代家利・江上武種の名代・執行種兼、他に本告頼景・綾部賢幸(鎮幸とも)ら沢山の者達が参陣する。


隆信はまず筑紫貞治(鎮恒・昭門とも)の朝日山城を、案内者でもある執行を大将として攻めさせた。

執行は不意に一手の者に
「昨年、我らの城原城を鍋島信生に攻め砕かれ、和を乞うて龍家に仕えた今、此度の従軍にてその鍋島が下知を受ける事は非常に口惜しい。せめてこの朝日山の城を我が城原勢のみにて攻め落とし、昨年の恥辱を雪ぎたく存ずる。此の事、構えて佐嘉勢に知らするな」囁くと、松明を数百用意させ、4月1日の夜、松明を人足数百に燃やさせ、朝日山の三方に振り分けて猟師らの使う細道を登らせる。

城兵はこれを見降ろし、さては三方より夜討ちを掛けるかと見て、急ぎ人数を三方へ配して差し固めた。

執行は頃合いを見て、城原勢300余を一方の口より攻めた。

思った通りに此方側は無勢であった為、執行は喜悦し大音声を上げて、城戸を破れ、塀を打ち破り城中へ攻め入れと、頻りに下知を飛ばす。

城原勢は次々と塀を打ち破って我先にと城へ雪崩れ込み、城内へ火を掛け、鬨の声を上げた。

三方に分かれた城兵は動揺し、戦意を失って勝尾へと皆落ちて行く。

執行が凱歌を上げたのは4月2日の辰の上刻(AM 8:00頃)であった。

隆信は本陣より遠くこれを見て鍋島信生を招き寄せ、
「あれを見よ。城原の執行が他の勢力の援け無く城を攻め落とす様の、何と面白き事か。世に言う如く、敵として強き者は味方となっても強しとは彼の者の事である」と大いにこれを賞賛した。

執行は功により200町を加増されている。

ちなみに朝日山城には城主・貞治は居なかった。子息の筑紫栄門と共に、綾部の本城へ居たともいわれる。


隆信は勝尾城下へ陣を進め、城主・筑紫広門の元へ使者を派して、
「我は此度、三根・養父の輩を退治致すべく出陣し、既に朝日山の城は攻め落とした。只今より其処許の城へ取り掛からんとしておる。されど、其処許が和を請うのであらば、戦には及ぶまい」と申し送った。

これに広門は、親類家人を集めて評定の上で和平と決し、その印として、筑紫栄門の綾部城を始め、その左右の持ち分である三ヶ城を龍造寺家に割譲した。


隆信は養父の陣を払い、次に三根郡へ打ち入る。

横岳鎮貞の西島城を攻めるも利を得られず、龍造寺家晴・龍造寺家就らは引き退く。

止む無く隆信は、西島城を差し置いて帰陣あるべきと、崎村領人・犬塚家広を崎村から中津隈へ移し、姉川城主・姉川信安を姉川から米田へ移して米田村の横岳領100町を奪って信安に与え、土肥家実を加えて三根・養父両郡を守らせた。

隆信は帰城に及ぶが、このとき坊所尾張守の仲介により、筑後国は貝津城主・安武鎮教(後に隆信と同じ山城守を遠慮し、式部大輔家教)も隆信へ和を請い、起請文を提出した(但し再び裏切る)。




筑紫広門も苦労してるな (゜-Å) ホロリ

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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