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【大友の肥前支配~神代勝利・戦国大名化計画IF1】龍造寺隆信「覇」の巻15

さて、今回のシリーズは「IF肥前神代藩成立」を、楽しく妄想するコーナーです。
あくまでも妄想になります。
というのもネタバレになりますが、神代家は後に嫡流が絶えるからです(家は残るけど)

でも生き残ったのが神代勝利なら、歴史が違ったかもよ?
今山合戦で大友と戦うのは神代だったりする?
マニアックネタですが・・・皆さん、ちょっと ウキウキ(0 ̄*O)(O* ̄▽)Oワクワク してみませんか^^/

で、その前振りとして大友家の肥前支配について、シオの脳内整理に御付き合い下さい(^ -)---☆Wink


まず、単純に「シオ的大友配下の定義」について。

1)豊後参りに行く
(毎年八朔の日(8月1日)に豊後で行われる大友威光を示す軍事パレードに参加し臣従を誓う儀式)
2)租税を納める
3)軍役に応じる(早い話、大友軍が出陣したら馳せ参じます~てことネ)
4)府内へ人質を差し出す
5)時の大友当主から偏諱(へんき=諱の一文字を拝領)を受ける

1&2に関しては、図書館所蔵とかの大友関連文書や史料の裏付けが取れないと把握不可なんで、道産子素人歴女じゃ無理。
3~5ならWEB検索で判る~ただし、個々の国人を調べて行くと言う地味に時間かかる作業だけどwww
でもシオってば凝り性だから、コツコツやっちゃうのよね(*´pq`)クスッ

で、一番調べやすいのが偏諱ですが、大友家から偏諱を受けた肥前国人は、宗麟の父・義鑑の頃から出始めてます。
一方、しぶとく残ってる少弐家。少弐から偏諱を受けてた(だろう)と思われるのは政資の代くらいまで。
政資の孫・冬尚から偏諱を受けた国人は、シオの調べた範囲では皆無・・・です。

哀しいかな、これが衰退しゆく少弐の現実。
名門ゆえに神輿として担がれるだけで、担ぐ国人たちに少弐に対する忠義はないんです。
大友義鑑は、一言で説明できない事態が重なり大内と和睦、北九州支配から一端(表向き)手を引きます。
再び大友が本格的に北九州支配に乗り出すのは、大内義隆が家臣の謀反で討たれてる1551年以降の事。

1554年、大友義鎮が肥前守護職となる
人物・大友宗麟

大友家では守護代に相当する役職「方分(ほうぶんorかたわけ」を任命しました。
したんですが・・・・大友支配が何処まで肥前に及んでいたかとなると・・・かなり微妙です^^;

方分職は行政と司法と現地政務などを司り・・と権限は大きい。
ところが、読み方がハッキリしてないように、方分職そのものが未だ研究段階途上。

国単位だけでなく、郡単位の方分任命もあった・・・とか。
義鎮時代初期は他役職との兼務もしてましたが、家臣謀反を恐れ次第に方分と他役職を兼務させなくなったり・・・とか。
現段階で肥前方分(守護代みたいな感じ)に任命された・・・と推測されているのは以下の三名。

臼杵鑑速、田原親賢、吉弘鑑理

ただし研究者全てが、この三人をチョイスしてるわけでなく、上記三人の内「二人が方分だ」「いや一人だけだ。」と説が別れてます。

どうも肥前に関して大友家は実行支配までには至っておらず、方分職の三人は大友家における肥前関係の窓口・・・というのが実情に近いかもしれません。

正直な話。大友家では家臣謀反・国人謀反への対応で忙しく、それに加えて毛利とドスコイ状態になったりで、肥前まで手が回らなかったんです。
この有耶無耶な状態が龍造寺隆信の台頭を許してしまう事になります。

家紋・少弐


今まで少弐は大友のバックアップ受けていた・・・とザックリ説明してきました。
が、それは具体的な事例には乏しい、実はムードみたいなものでした^^;

自分の知る限りでは、少弐の要請で大友が肥前に派兵した事実はないと思います。
あくまでも大友が北九州へ兵を入れるのは、
大友都合の
大友事情による
大友利益のための軍事行動

でして、少弐はダシにされてるか、少弐の方で大友に便乗したかのいずれかです。

ぶっちゃけた話。大内義隆が死んだからには、大友にとって少弐の利用価値は半値以下。
少弐支援を大義名分にする必要などサラサラなく、大友自身の実力・財力で守護職を次々と余裕でゲッチュー。
少弐は残っても残らなくても、どーでも宜しい。まぁ龍造寺が力つけてるからフタになってくれれば助かるかな~程度。

むろん守護大名&キングオブ九州として「少弐から保護を求めてくれば」(亡命者として)受け入れる度量はあります。
なんたって太宰少弐ですもん、大友保護下・府内在住居候となれば、大友が自慢できるでしょ?(*´ー`)


少弐冬尚は、大内義隆の死で「大友にとって少弐が政治的に不必要になってる事実」に目も耳も塞いでいたかもしれません。
利用価値なし・不必要になるって事は、相手が龍造寺でなくとも大友に滅ぼされる日が来るっかもしれないって事。

シオ的「少弐が武家として生き残る道」は、大友に臣従を誓う事です。
大友義鎮から偏諱を受けるか、人質(家臣クラスじゃダメね、身内よ)を府内へ差し出し、八朔の日に少弐冬尚自身が豊後・府内へ詣で大友の下座に着くんです。
そして龍造寺討伐の為、大友家臣生え抜き同紋衆の出陣を請い願う。

・・・・が、これを実行するには、少弐は余りにも名門すぎました・・・・(´;ω;`)ウッ
鎌倉時代「九州三人衆」として、大友家と肩を並べていた少弐氏が、どうして大友の下座につくなど出来ましょう・・・(´;ω;`)ウッ
少弐は、ゆっくりと確実に地盤沈下し、少弐配下の国人たちは少弐の頭越しに大友家からの偏諱を受けていきます。
少弐配下だったはずの神代勝利にしても、そう。
彼もまた、少弐とは関係のなく自己判断で動き始めて行くのですが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: No title

おお!そうですね!そのように変更します。
御配慮ありがとうございます^-^

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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