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【考察・終~神代勝利戦国大名化計画IF9】龍造寺隆信「覇」の巻23

片や龍造寺隆信の動員した兵力は如何ほどだったと思います?
(たぶん負けたのが恰好悪いので)記録にない佐嘉勢の兵力・・・自分は6000~8000と推測してます^^/

考えても見て下さい。
山岳地帯の山内で3000(これが限界と思う)の頭数が揃うなら、肥沃な佐賀平野&河川流域(=人口も多い)を支配する龍造寺隆信の動員能力は、神代勝利の2倍以上のはずです。

当時の龍造寺隆信領は石高推定だと25万石以上、織豊期の一般的な軍役が1万石につき250人なので、単純計算で動員能力は6000(=^・ω・^=)v ブイ
北肥戦誌だと行き当たりばったりの出陣ムードの佐嘉勢ですが、三瀬村史だと事前に入念に準備した事になってます。
それなら慎重を期して、6000以上動員しちゃったかもですよ^^b
これは龍造寺隆信の性格も要素に含まれます。

僧侶出身の龍造寺隆信には「寡兵で大軍を破る」的な、名人芸発想は浮かばないし、ヤル気もない。
無論、出自に関係なくソッチ方面に才能豊かな方もおられるでしょう。(いま思い出せないがwww)
でも用心深い肥前の熊は、確実な勝利を得る方向に走るので「戦う時は敵より多く兵を募る」セオリーに忠実なんです。

家紋・竜造寺
意外と真面目な肥前の熊,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

逆に性格+経歴+山内地形的に奇策パフォーマンス大好きっ子が神代勝利。
彼が実質率いた兵1700は、山岳地帯の山内で己の手足の如く動かすのに「程よい人数」なのでしょう。
神代は嫡男率いる兵1300を伏兵に使わず、完全待機(=隠した)させてました。
従って出陣初動時において、佐嘉勢は「神代・山内勢が1700のみ」と錯覚してた可能性があります。

また、錯覚するように神代勝利も行動してたはずです。
先陣大将の小河信安はともかく、神代勝利は大将でありながら自ら斥候するなど、動き回ってましたから^^b

「神代勝利・山内勢パッと見1700VS龍造寺隆信・佐賀勢(推定)6000~8000」
3.5~4倍以上の兵力差・・・これだけ差があれば、用心深い平野部育ちの熊も山内に足を踏み入れて来る・・・!
兵力差の傍証は、神代と龍造寺の行動にちゃんと表れてます。

名尾峠で大敗した時、龍造寺隆信は更に山内の奥へ行こうとしました。
兵力に余力が無ければ思いついても実行は躊躇います。
おそらく隆信を守る本陣や旗本衆は、未だ無傷だったんじゃないかな~だって隆信は名尾峠じゃなくて三反田にいたんだもん。
地図・名尾峠 

三反田から神代勝利の本拠地・三瀬まで8kmくらいで、実は割と道がハッキリしてるからジモティじゃなくても迷う心配はなさそうなんです。
だから攻撃すれば三瀬城は落とせたと思う。神代は目一杯動員してたはずだから、三瀬の守りも手薄だったはずなんで。

が・・・隆信のアイデアには重要な欠点がある・・・それは時間( ̄ω ̄A;アセアセ
北肥戦誌にも三瀬村史にも富士町史にも、細かい時間経過は書いてません。
(大元の出典と思われる)神代家伝記の方で、そこら辺りもワザと書かなかった可能性がなきにしもあらずです・・( ̄ω ̄A;アセアセ

10月16日早朝から行動したとして、名尾峠で決戦して大敗して、
その報告が届いて隆信 カチョ゙━━━(゚ロ゚;)━━ン!!は、時間的に午後12:00~14:00の間くらい。

龍造寺家臣一同「今から三瀬方面に進んだら、三瀬で夜になります~~・゜・(PД`q。)・゜・号泣」
旧暦10月だから、もう初冬で日が落ちるの早いっす。山岳地帯の山内ならアッという間に真っ暗。
街灯なし道路標識なし舗装道路なしの戦国時代でBGMがオオカミか野犬の遠吠え・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

龍造寺隆信って慎重で疑り深くて凄い用心深いのに、反面、とてつもなくワイルド豪胆な所もあるんです(AB型だったりして,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)
龍造寺家臣・涙目「三瀬方面どころか、今すぐ退却しないと日暮れまでに佐嘉に戻れませ~~ん!!!(;人;)☆オネガイ退却オネガイ撤退オネガイ帰還」

この恐怖に動じないのは、たぶん言いだしっぺの龍造寺隆信だけ・・・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
さすがに旗本衆は崩れてないと思うけど、雑兵クラスなら既に逃亡しはじめてたはず。
「大敗した敵地の中で、日暮れになるかも」って事に気づいたら、もう恐怖のあまり足を止めるなんて無理。
恥も外聞もヘッタクレもない。ものすごーーーーい全力疾走で退却したんじゃないでしょうか^^;



戦の前、神代勝利は嫡男・長良に対し「待機」を命じました。
動く時は「パパ勝利の本陣が崩れた時」or「佐嘉勢にパパ勝利が勝利した時」のどっちか。
でパパ勝利曰く「佐嘉勢は負けたら、一段と用心して守りが固くなるから」「追撃するか否かは自分で状況判断」してね(^ -)---☆Wink(by三瀬村史・意訳)

勝利の嫡男・長良は非常に優秀で、そのくらいの状況判断は苦も無くデキル子でした。
結果として神代家が佐賀藩士として生き残ったのは、この嫡男の判断による所が大きかったくらいで、神代家伝記でも手放し(大人の配慮含)で褒めてるそうな。

で結果、嫡男・長良は1300の兵を擁しながら佐嘉勢追撃をしませんでした。
これは隆信を守る旗本衆が崩れず、かつ無傷だったからに他なりません。
追撃しても旗本衆の層が厚く、隆信の首をとるところまで肉薄出来ないと判断したんじゃないでしょうか。

もしくは、物凄い速さで退却する(と思う)佐嘉勢に、名尾峠反対側入り口にいた嫡男の兵が追いつけなかったかもです。
神代勝利の方は、手勢に損害が出てたのと、小河との一騎打ちで勝利本人が負傷してて(皆には隠してたそうな)追撃の余力がなかったようです。

この戦いで龍造寺隆信の首と獲れなかった瞬間に、神代勝利の戦国大名化の夢は消えましたショボーン..._φ(・ω・` )
冒頭にあげたように基本動員兵力に大差があっても、龍造寺隆信の首を撮れたら局面はガラリと変化し、様々な可能性への道が開くからです。

そして基本動員兵力に大差がある以上、山内に隆信を誘き出せなければ神代勝利に勝ち目はない。
「大軍を擁しても山内の中では神代勝利の餌食になるだけ」
この事実に改めて気付いた隆信は、山内を戦場にする事は二度とありませんでした。

龍造寺隆信は、神代勝利に与する周辺勢力を潰し、山内そのものを孤立させる事に方針を変えます。
そうなったら神代勝利が圧倒的に不利。

神埼・佐嘉・小城の三郡に跨る広範囲の山内を領する神代氏が守勢に回るということは、
山内の各村落・館や城に一定数の守備兵を「常時」配置しておかなければならないからです。


かつて天から舞い降りるが如く、神出鬼没・自在に平野部を攻撃してきた神代勝利の羽が無残にもがれようとしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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