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【1571年】於安の悲劇

隆信は小田鎮光とは元々相容れぬのだろうと、謀り寄せて誅殺すべしと思い立つ。

4月初旬、隆信は鎮光夫人であった於安に対し、
「御主の夫・鎮光は、昨年多久より退きて流浪し、今は筑後に在ると聞く。されど、我らに敵対しようとも、一度は婿に取り親と子の立場になりし上は、このまま諍い続けるのは如何であろうかと存ずる。鎮光が心を翻し、すぐさま我が前に来りて先非を謝するならば、早速に旧領・蓮池を返し、御身と共に暮らさせるよう計らう所存である。もしこれを嬉しく思うならば、急ぎ鎮光の居所へ文を送りて、その旨を伝えてはくれぬか?」と嘆く様に述べた。

於安はこれを殊の外喜び、自身の乳母に
「さても父上の志の嬉しさよ。自らは胤栄が一子にて父上には儘子。・・・男なれば家を継ぐべき者なれど、女子の身なれば左様な望みなどありはしない。唯々悔しきは鎮光様が他国に居られる事・・・それを父上は御赦免になられ、夫婦一所に居させてくれると申された。急ぎ文を認め、筑後へ遣わすべし」そう語った。


さて、於安よりの文を受け取った鎮光は、間違う事無き於安の筆跡に大いに悦び、弟の小田朝光に、久池井三郎左衛門・山崎主水允ら主従12~13人を連れて、4月9日に筑後の仮屋を発って佐嘉へと赴いた。

翌10日、鎮光らまず納富信景の館へ入り、弟・朝光は鍋島信房の屋敷へ入る。

隆信は此れを聞き、すぐさま納富信景を招くと、今夜鎮光を汝の館にて討ち果たせと命じた。

納富信景は急ぎ帰宅して家人らを集めて話すに、
「鎮光の剣術はその父・政光より師事し尋常ではない。それを心得て討ち漏らしてはならぬ。わしが組み付いて刺し違える。もし仕損じたならば、各々宜しく頼む」と述べる。

これに伯父・納富信門は
「御辺が申すは尤もなれど、御辺は納富が惣領である。幸いにわしは御辺が歳若きゆえに後見であった身・・・刺し違えるは我らがなす。御辺を敵の家人などの手に掛けたとあっては武士の本意に非ず」と信景を制して、鎮光討ち取りの準備を始めた。

隔して信門は時刻を量って座敷へ入り、鎮光へ会釈すると刀を抜き様に斬り付ける。

鎮光は即座に信門を斬り伏せ、続く4人も矢庭に斬り倒す。

後方に控えていた水町左京允は仕損じまいと槍を持って突き掛かる。

鎮光は力み刀を折るが、後ろに立ててあった刀を取って渡り合う。

これに水町も危うくなった頃、その子息・水町彌太右衛門(16歳)が駆け付けて鎮光を斬り伏せた。

鎮光家臣の久池井は彌太右衛門に討たれ、山崎は主の仇と彌太右衛門に切り掛かる。

しばしの斬り合いの末、彌太右衛門は手傷を負わされるも、父・左京が駆けよって山崎を討ち取った。

また、鎮光の弟・朝光は、寝所で寝ている処を、鍋島信房・信生兄弟に討たれた。

鎮光は「おのれ、敵が娘に謀られた」と、於安への恨み事を発して死んだという

それを聞いた於安は、胸が塞がる程に嘆き悲しみ、「父上、なんと恨めしきか。私を謀り夫・鎮光を殺そうとは・・・本意に在らざる我が心底、死してあの世の鎮光殿へ語らん」と、守刀を抜いて自害を図るが、母や女中らが刀に縋り付いて止めさせる

隆信は、於安が再び自害せぬよう、嫡子・龍造寺鎮賢(後に民部大輔政家)を日夜付け置き守らせた。

また隆信は、同じく約を変じて大友に与した江上武種も征伐すべしと、鍋島信生を先鋒に、龍造寺信種・龍造寺家就ら2,000余騎を城原へ差し向ける。

武種は覚悟していた事であったので、家臣の執行種兼に下知し、枝吉種次・直塚純英・服部種家・米倉種益らを伴って南の大手門を差し固め、執行は自ら6~700名を率いて大手門より南へ押し出して川土手を影に取って伏兵した。

そこへ鬨を上げて信生らが攻め掛かって来る。

執行の伏せ勢がこれに襲い掛かると、信生勢は討ち負け南へ引き退く。

これに後陣の龍造寺信種らが敗軍の味方を援けて戦うも、城原の軍兵が執行勢に合流、龍造寺勢は討ち負ける。

城原勢は阿祢村まで追い掛け、矢を少々射掛けてから鬨を上げて帰陣、龍造寺勢は退却した。

隆信は大いに腹を立て、ならばと自ら3,000を率いて城原へ攻め掛かる。先方は再び信生が務めた。

江上家では評定が持たれ、枝吉は「先の戦いで鍋島が打ち負け、今度は隆信自ら出陣とあらば、難儀な戦となりましょう」と述べる。

が、執行は「いや、左に非ず。今度の先手も、先の戦いで城原武者の手並みに苦戦した鍋島である。再びこれを切り崩し、隆信の旗本へ打ち掛かりて奮戦致さば勝ちを得られよう」と反論、士卒2,000人を率いて南の横大路にて待ち構えた。信生は弓鉄砲を射掛け戦う。

勝敗が着かないうち、信生は軍兵を分けて西の方へ廻すと、藪陰から執行勢へ鉄砲数十挺にて釣る瓶打ちに打ち掛けた。

執行勢は大いに動揺して打ち負け、城内へ逃れ行く。

信生は勝ちに乗じて追い掛け、町小路に火を掛けた。

執行は一転、「先の戦いにて佐嘉勢を追い崩し、もはや思い残す事は御座いません。ここは龍造寺へ和睦を求めましょう。某、只今より鍋島の陣所へ参りて、その旨申して参ります」。と述べた。武種も止む無しと同意する。

隔して執行は信生の陣所へ赴き、和平を申し込む。

隆信は執行へ「以前、武種より、城原に事あらば狼煙揚げるゆえ援兵を頼むと依頼された事がある。されど、わしは大友より城原が攻められし際、狼煙が挙がったにも拘らず援兵を出さなかった。武種の心底が判らなかったからだ。果たして武種は大友へ与した。斯様、常に変心せし者と和平など許す事かなわぬ」と突き離す。

信生がしきりに「重ねて武種が変心する様な事あらば、私が許しませぬ。何よりその約定として、殿が御次男を養子と願って居るのでこれを御容赦されますよう」と、穏便にと隆信へ伝えると、和融に決し合戦は止まった。

同年の夏、隆信は江上勢を率いて少弐・大友に就いた者共を退治すべく東肥前へ進軍、執行種兼が城原から出て先陣を務めたが、
このとき三根郡の土肥家実・坊所尾張守らが大慌てでこれを出迎えて、龍造寺家へ従属した。

だがその頃、神代長良が山内から千布へ出て、隆信の留守を狙わんとしているとの注進が佐嘉よりあり、隆信はすぐに帰城した。


その頃、有馬・平井の抑えとして杵島郡にあった納富信景は神代来襲を聞くと、龍造寺信周へ杵島口を任せ、佐嘉へ帰って先陣を請い、千布にて神代勢と戦う。

そのうち両勢の間に和談がなり、神代家は龍造寺家に従属した。




江上氏が降伏しちゃったぁ・゜・(PД`q。)・゜・←大蔵系オタ
隆信は裏切りを許さない・・・なんとなく織田信長に似てる?

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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