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◎『後藤家由来の事』

北肥戦誌より抜粋



後藤というのは元祖は如何なる者かと尋ね聞くに、大織冠の末裔・左近将監、兼武蔵守藤原利仁将軍の子孫である。

利仁6代の孫を後藤内則経という。

源頼信に仕えて、或る時は越前の盗賊を征伐し、或る時は市原野の猿童を誅す。

その子を後藤内章明と号す。北面にあって昇殿を免じられた故に雲上後藤内と称し、また河内国坂戸を知行したことにより坂戸判官ともいう。

これも源頼義朝臣に仕えて八幡殿の乳母子となる。

義家一年のとき、奥州の安部貞任を攻め、七箇年の在陣で大功を立て、義家朝臣が僅か七騎になったときも格別の軍労があった。それを七騎武者と称す。

その七騎とは、鎌倉権五郎景政・三浦平太郎為次・忍三郎季茂・加藤加賀介景通・首藤権守助通・後藤内章明に大将の義家を加えた七人である。

この章明の子である後藤太資茂も相次いで義家朝臣に仕えて、清原武衡追討のとき出羽国に於いて軍功があった。

その後、義家の子息・六条判官為義の天仁2年に伯父・義綱を江州甲賀に討ったときも相従った。

隔して、この資茂のとき初めて肥前国杵島郡塚崎庄の領地へ下向した。

それ以来、その子・後藤資明が塚崎の城に居住して、人皇76代近衛院のとき仁平年中に、八郎為朝が鎮西在国の中、黒髪山の大蛇を射たとき、専らその評定の人数であった。

この資明26代の孫を《後藤純明》と号した。

この純明には男子がなく、《大村純前》の次男・又八郎純を養い一人娘に娶せて、中頃は後藤左衛門尉と号し、後には伯耆守と改めた。今の貴明がこれである。

初めての室は早世したため、それ以後は伊佐早の伊福氏の女を迎えた。

この貴明、武勇あくまで優れ、近年は後藤領の他に他郡を多く切り取り、門前に馬を繋ぐ血判の侍は既に400余人という。
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