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◎『黒木河崎星野由来(附)侍宵侍従の事』

筑後国の住人である黒木・河崎・星野というのは元来一姓で、世に稀な調姓である。

その由緒を尋ね聞くに、中頃、上妻郡河崎の庄は黒木山の城に、蔵人源助善という者があった。

その先祖は薩摩の根占に住んでいたため”根占の蔵人”ともいった。

歌読みであり笛の上手でもあった。

この蔵人、頃は人皇80代は高倉院の時代、嘉応年中に大番勤めのため上洛して内裏に仕えた。

そんなある日、管弦の遊座が催される際に俄かに笛の役が欠けたのであるが、そのときに徳大寺左大臣実定卿がこの助善の笛の器量を予てより聞き知っていて、そのように奏聞があったときに、ならば助善を殿上へ召すべしと勅定があって縁に参じて笛を吹くと、堂上の笛の音よりもなお澄みやかにその調べをたたえて御遊びは無事に終わった。

主上は甚だ感じ入って、助善に調子の「調」の字を姓に下賜し、更に従五位下に補任して蔵人大夫調助善と名乗らせた。蔵人のときの面目である。

この蔵人が在京の間は徳大寺殿から懇意にされ、雨の夜・宵(雪か?)の朝・月花の遊宴にも常に昵近された。

或る深夜のこと、徳大寺殿が助善を伴い、知り合いの女の元へ立ち入ろうとした際、女は待ちわびて
”待つ宵に 更け行く鐘の こえ聞けば あかぬ別れの 鳥はものかは”
と詠み、稀に逢う夜の恨み言も尽きなくて、その朝に実定が帰る際、あまりに別れが惜しまれて、助善を女の元へ返して尽きない名残を託したのであるが、助善は女に向かい一首の歌を詠んだ。

”物かはと 君がいいけむ 鳥の音の 今朝しも如何に 恋しかるらん”
これより助善は異名を”物かはの蔵人”と称され、女は”待宵の侍従”といわれた。

この女、元は阿波局という高倉院の官女であった。あるとき、悩みがあるときに歌を詠んで叡慮(天皇の御心)に叶い、供御を上ってその侍従とされた。

父は八幡の別当法印武内光晴、母は健春門院の小大進である。

隔して蔵人、大番を勤め終えて帰国する際に、徳大寺殿がこの年月のことを思い、この待宵の侍従を蔵人へ下された。

蔵人は身に余る面目と、この女を伴い帰国した。

しかし、黒木山にいた本妻がこれを聞き付け大いに腹を立て、
「その京上﨟め、何故にここに来るのか。片時も此処に置くなどできない」
と、下人共と語らい城の麓の大河を境として、これを入れないように防がせる。

しかし蔵人大夫はこれを打ち破って待宵と共に本城へ入った。

本妻は息巻いたが聞き入れられず、境の黒木川の深淵に身を投げて死んだ。

その骸の寄った所にこれを埋め祠を立てた。これを今の世まで築地御前という。

侍従はすぐさま懐妊し、程無く男子を生んだが、これは実定卿の子であるため「定」の字を実名に用いて《黒木四郎調定善》と号した。

この子孫は代々、黒木山猫尾城に居住した。

その後、侍従はまた男子を産んだ。

この蔵人の子の子孫は星野・河崎と号し、星野は生葉郡星野妙見城に代々居住し、河崎は上妻郡川崎伊駒野の城に居住した。

しかし、彼の築地御前が侍従腹の子孫に怨を遺して根をなす

これによって、黒木の子孫からその霊魂を祀るようになった。

その祭りには年に一度、彼の女の忌日に身を投げた淵に”粋(すい)”という器に化粧の道具を入れて水上より流すのであるが、その場所へ至ると忽ち沈んで見えなくなるという。黒木の子孫は今は築河にある。

また、待宵侍従が下向した際、所願あって高野山に一寺を建立し”講坊”と号した。これは調姓の菩提所である。

別説として、蔵人助善は元来高倉院北面の侍であり、六位を歴任した歌人で、異名として蔵人という(或は助能)。

この蔵人の子孫が今に徳大寺に仕えて苗字を”物加波(ものかは)”と号した。

黒木河内に於いて古人が語るには、黒木・河崎・星野の三人は腹違いで、黒木は待宵腹の高倉院の子で総領を継ぎ、後は本妻の子だという。

また、黒木の家は27代で、蔵人助善から兵庫助実久に至り、天正の末に大友家のために衰亡したという。

待宵侍従は後に帰京したのであるが、墓は八幡にある。
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テーマ : 歴史
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Author:時乃★栞
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