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【両属の矛盾・・・二つの犬塚・肥前編2】

犬塚氏5兄弟の基礎データ(名前の前に★マークがある人物は養子です)
(東犬塚)
崎村城主、長男・家直⇒★鑑直⇒鎮直⇒家広(以下略
三男・家種~長男を補佐^-^
(西犬塚)
蒲田江城主、次男・家重⇒元重⇒尚重⇒信尚(以下略
(直鳥)
直鳥城主、四男・家久⇒家清⇒尚家⇒鎮尚(以下略
【小松城主、家清の子で尚家弟・鎮家】

東古賀館主、五男・家喜⇒(以下略


前回、総領の座を巡る争い・・と書きましたが、あくまでも自分の推測でして、あからさまに家督ウンヌンで揉めた訳ではありません。

ただ総領家・東犬塚と次男家・西犬塚は、一族の外交方針で決定的な対立をしました。
で、根底に|総領の座|_ ̄)じぃ。。。って気持ちがあった?かも?と思ったんです。
というのも総領家では男子に恵まれず養子で繋いでたからです。

それが東犬塚で★マークついてる鑑直。
どこから迎えた養子かは調べきれませんでしたが、以後は養子の血統が東犬塚を継承します。

泰平の世ならともかく、戦国期に総領家当主が養子・・・
っていうのは、出番がなかった次男にとってモヤモヤの元です( ̄ω ̄A;アセアセ

養子の立場を補完するために東犬塚家では、大友家の偏諱を受けたのでしょう。
これは東犬塚家だけでなく、犬塚一族全体が大友配下となった事を意味します。

家紋・大友 大友家紋ロゴ

もちろん少弐配下であるのは継続中~
国人にとって、より大きな勢力の後ろ盾を得る事は生き残る為に必須。
何回も言うように、主君二股は道義的には無問題(主君の方でモヤモヤするかもは別の話)

ちなみに肥前国人にとって「(少弐)より大きな勢力=大友家」です。
大内チョイスは、基本としてアウトオブ眼中。
一時期、肥前国人の殆どが少弐配下でしたので、少弐の敵である大内に靡くのは寝返りになっちゃいます。

とはいえ、大友の支配を毛嫌いし、中国地方のドンから後ろ盾を欲しがる筑前国人たちとは真逆なのが面白い。
これは文化交流の密度の違いから来るのかな~と感じてます。

神代しかり、犬塚しかり、筑後国人が新天地ヤポー♪ヽ(*´∀`)ノと土着するのが肥前なら、
肥前国人(代表例・龍造寺)がヤバくなったら亡命するのは筑後なんです。
その筑後は鎌倉の頃より大友支配下にあるのだから「寄らば大樹」の樹は大友・・・と言うのが自然の流れ。

肥前国人が筑前へ亡命したり、大内の後ろ盾を得る時・・・
それは大友ブランドが売約済で他に頼る相手がいない時です。
下手うってガチで大友と揉めちゃったり、自立したくて謀反した時などなどですね^^

余談はさておき
犬塚一族で最も知名度があり、キーマンとなるのが犬塚鎮家。
犬塚鎮家は直鳥犬塚家・家祖の孫にあたります。

1558年、龍造寺による勢福寺攻めにおいて「北肥戦誌」曰く、
蓮池の小田政光、蒲田(江)・崎村の犬塚鎮家・犬塚左馬大夫も出陣する。

多分、これ北肥戦誌の誤記です。
犬塚鎮家は、この当時は小松城主でして蒲田江に入るのは後年の事です。
1558年だったら西犬塚の蒲田江は元重か尚重の代。
崎村の犬塚左馬大夫も?ダレ?ヽ(。_゜)ノ左馬大輔鎮直の事じゃないでしょうか^^;

少弐配下だった犬塚一族は、龍造寺が台頭するにつれ少弐から龍造寺へとシフトチェンジしました。
自然・時代の流れで少弐が泣いても喚いても、どうにもなりません。
ここで問題になるのは、
犬塚一族が大友配下の状態をキープしたままで、龍造寺配下になった事です。
読んで下さる皆様・・・揉める予感がしませんか?それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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