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【難攻不落・柳川城】江上表・八院合戦編2栞85

ブログ装飾画像~南洲さま
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兜、人物イメージ画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先
(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
URLが弾かれるので貼れません~興味ある方は検索してください^^

1600年10月2日~名将・立花宗茂が13000の兵とともに柳川城へ入る

ヽ(。_゜)ノ へっ?
ウィキペディアの記述でシオは、初手から躓いた☆

10月1日に処刑された石田三成が、7月の挙兵時に宗茂に依頼した兵力は、100石につき一人。

柳川だと13万石だからして、単純計算だと1300人だった。

それを宗茂は「秀頼君に馳走し奉らん」と、ほぼ倍の2500人で出陣したのだ。

行きは2500で、帰りが13000って、どういうこと???(@@)

違う西軍の落ち武者が混じったにしても多すぎる。

感動的な島津と立花の偶然の出会い・・・島津が数十名にまで減ってるのは書かれているが、
立花側が何人率いていたか書いてる資料が見付からない~~(_´Д`)アイーン


立花家紋

徳川幕府の一国一城令が発布されるまで、各領地には本城の他に軍事拠点である支城が沢山あった。

立花家の場合も、本城が柳川城で支城が幾つかあり、支城の守備兵殆んどが柳川城に入ったのが13000の正体という訳だった。

各支城の城主のうち、何人かは宗茂が西軍として参加するために従軍しているが、
それ以外の城主も本城・柳川城に入っているので、宗茂が帰還した10月2日に、いきなり全部が入ったわけではないと思う。

支城・・・つまり持ち場を離れるには、主君である宗茂が正式に軍令を出しているはずだが、
残念ながらネット検索では個々に発令した軍令までは分らなかったです^^;



立花家の本城・柳川城~難攻不落の堅城と謳われ、軍事的攻撃で開城したことは一度も無い。

熊本城が出来るまでは、この柳川城が「九州一の名城」と言われていた。

これは宗茂が築城した城ではなく、蒲池(かまち)氏が築城したものだ。

蒲池氏は、鍋島の名目だけの主君・竜造寺氏が活発な頃に、柳川城から誘い出されて謀殺された。
(ちなみに 生き残った蒲池氏の現在の当主は 歌手・松田聖子の兄上です^^)

蒲池氏の後に、鍋島直茂が竜造寺氏の命令で柳川城に入り、雷神・立花道雪が何度か攻撃したが落とせず悔しがってます。

でもって豊臣政権が誕生し、大名となった立花宗茂が秀吉の命令で、鍋島に変わって(途中省略)柳川城主となったのです。


鍋島家紋

柳川城の堀には謎の浮島がある。

「ただの景観用だ」「いや軍事用だ」「倉庫代わりじゃね?」

と、何のために作られたのか、未だにハッキリしていない。

とにかく「凡将が籠城しても1年、名将が籠城したら3年は落ちない」とまで言われたほどの名城なので、
兵力を支城に分散するよりこの堅城に全員入り、臨機応変に対応することを選択したのだ。

鍋島軍が柳川の領内に侵攻してきたのを知った宗茂は、自ら出陣しようとしたが、
上席家老の薦野増時(こものますとき)が宗茂を止めた。

薦野
「関が原の戦いの結果で、もはや大勢は決まっております。これ以上は徳川殿を怒らせてはなりません。
ですが、国に攻め込まれ黙って見ているのは武士ではありません。
ここは我ら家臣にお任せください」

薦野の言葉に従い、宗茂は自分が直接指揮を取るのを諦め、次席家老を総大将にすることにした。

立花家次席家老は小野鎮幸(おの しげゆき)。

立花四天王の一人で、宗茂の両翼とまで言われた武将だ。

ちなみに小野はジョン・レノンと結婚したオノ・ヨーコの先祖なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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