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【記録の温度差・・・川上合戦1】龍造寺隆信「道」の巻6

北肥戦誌曰く、永禄4年(1561年)9月上旬、隆信は山内の神代勝利へ使いを出し、
「御辺に対し鬱憤は片時も止む事が無い。ここは両家の行く末を掛け一戦に及び、今月13日、山里の境たる河上へ出張られ勝敗を決しようではないか」と伝えさせた。


三瀬村史だと、神代勝利が筑前まで勢力を広げた事に恐れおののき、決戦を決意したといった内容になってる。
以前も記事にしたけど、安楽平城(筑前大友五城の一つ)の小田部氏と神代勝利の戦いは、筑前側にデータがありません。
小競り合いで神代が地の利を生かして勝ったのは事実だとしても、今にも筑前平定しそうな勢いで記録されてて、村での伝承は相当盛ってるみたいです^^;

1559年に豊後勢が筑前へ筑紫・秋月退治にやって来た時に、佐嘉も窺ってました。
でも神代勝利や山内と接触がないので、大友氏も小田部と神代が揉めたのを問題視してないか、知らなかったんでしょう。

もう一つ考えられるのは、豊後・大友サイドが、山内・神代勝利を独立した勢力としては見做さず、佐嘉・龍造寺配下にくくってた・・・です。
だから小田部と神代が国境で揉めたのを、龍造寺のした事だと思ったとか・・・
まぁ史料がないので、そのあたりは何とも言えません。

ただ豊後勢が来た時に、当時浪人してた江上や小田が反応したのに神代が動かなかったのが不思議です。
龍造寺隆信を倒す絶好のチャンスでした。

人物・くましろん~ 神代勝利イメージ画像

三瀬村史には、豊後勢が筑前に侵攻してきて佐嘉も窺い最終的に龍造寺と和睦したあたりが、スッコーーンと抜けてます。
もしかしたら・・・いえおそらくワザと記録しなかったんでしょう。
江戸期成立の史料は、佐賀藩独特の大人の配慮が入るのが往々にしてあるからです。

想像するに、神代勝利もまた「自立した勢力」を目指し「大友の支配を嫌った」です。
コッチの方が自然です。
神代勝利は龍造寺と似てます。偏諱を受けず誰からもマーキングされてません。
山岳民族である山内の諸氏は神代を頭領として、龍造寺の支配を拒んだけど、だからと言って他の誰かの配下になって保護を受けようとはしてません。

龍造寺隆信がピンチでも大物を頼らなかったように、神代勝利も自力で己の運命を切り開こうとしてました。
龍造寺隆信と神代勝利は「似てるけど違うタイプの英雄」と、かつて自分が記事に書いたのは、そういう事なんです。

どちらも戦国大名化が目的。
龍造寺と神代は戦って決着をつけるしかない宿命のライバルなんです~ 
(人´∀`).☆.。.:*・←このカードだと神代贔屓の管理人

んで、1559年に侵攻してきた豊後勢の兵力予測が、6千~1万弱って話になる。
今山合戦ほどの大軍なら、大友につくのをキッチリアピールしないと、龍造寺サイドと思われて攻撃されちゃいます。
6千~1万弱くらいで筑前征伐の合間に寄り道IN佐嘉なら、傍観してたって(・∀・)イイ!

龍造寺と豊後勢が潰しあうのを期待したんじゃないかな~~と思ったりする。
逆に龍造寺を潰すのに豊後勢が神代を利用しなかったのも不思議なんですけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
豊後勢大将・田北鑑生は筑前方分、筑後方分の地位にいた人物で、武勇は勿論ですが北九州情勢に詳しいからの人選のはずなんです。

どうも肥前に関して大友の行動は、後手に回る事が多い。
筑前で定期的に謀反が起きるために、意識が筑前に集中しちゃうのも影響してるのかもしれませんね^^;

でもって1561年当時、神埼郡まで勢力を伸ばしつつある龍造寺に対し、
神代勝利は決戦を挑むだけの体力があるギリギリの段階でした。


これ以上の差が広がれば、いえ今現在でも単独決戦は難しく、援軍がなければ兵力不足なんです。
クールな北肥戦誌の記述と、盛り放題の三瀬村史の記述の差に、神代勝利の焦りを感じるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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