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【1570年】その4

さて、鍋島・納富の帰城により、龍造寺家中は勝利に沸いたのであるが、
隆信のみは、自身に背いた小田鎮光の居城に住まう於安と、自身の三男・鶴仁王丸を思い、喜悦するには至らなかった。

信生はその気持ちを慮り、甲冑を脱ぎもせず兵糧を取り、太陽が西の山に掛かった頃に村中城を出陣、多久城攻めに出陣する。

これに信生の弟・小河信貫(後の武蔵守信俊)・龍造寺信重(後に上総介家晴)・鴨打胤忠・その嫡子である鴨打胤泰・牛尾別当琳信ら600余人が、宿所に帰らぬまま先陣を請うた琳信を先頭にして信生に従った。

また、納富信景も前田家定を先陣に、南の横辺田口から攻めるべく出陣する。


信生はまず別府に陣を寄せると、ここの地侍・相浦右衛門允を味方に誘う。

相浦は、鍋島より受けた情け今更に忘れるべからずと、伯父・甥など家人を伴って参陣した。

果たして相浦を案内役とし、21日の未明に多久城攻めに着陣する。

信生は鍋島淡路守に公文相模守を副えて使者とし、多久城番の鎮光老臣・江口右馬助・内田治部少輔へ二人を引き渡すよう申し述べさせるが、江口らは了承しなかった。

ならば、大城戸を打ち破って攻め入るべしと、鍋島勢は城戸口へと攻め掛かった。

だが、城中の者らの守りは固く、且つ江口は櫓に登り、寄せ手の先陣である相浦右衛門を睨み付け、
「近年、当家この地を領有してより、彼の相浦ヶ一族共が食いはぐれることはなかった。だが只今、あの右衛門允、佐嘉勢の案内として真先に進み出るなど腹立たしき限り。ならば彼奴等の質人たる妻女をば城戸口へ引き立て、その処するを眼前にて晒してくれん」と述べた。

しかし於安は妻女の命を憐れみ、江口を頻りに押し留めた為、実現はしなかった。


鍋島勢は多数の犠牲を払いながらも、遂に大城戸を打ち破り、すぐさま本城を攻め落としに掛かる。

鴨打陸奥守も父子・主従50余人で城の背後に廻り、亀甲という難所から攻め掛かる。

嫡子・左馬大輔が深手を負い半死半生となるも、鴨打勢は遂にここより攻め入り本城へ入らんとする。

一方、信生は水の手の堀口に就き、七曲の上から三番目の木陰を盾にして下知を飛ばしていた。

そこへ城兵が打って出て切り掛かる。

そのとき、共に堀に居た龍造寺長信の家臣・成富興六左衛門が馳せ来て、信生に襲い掛かった二人をすかさず足下に突き伏せた。

信生はこれを「天晴れ、早業かな」と賞賛、「軍神の血祭りによく仕りたり」と尚も賛美した。

成富は塀に就いて、塀越しに敵と突き合うが、城兵に槍を圧し折られた為、信生に御手持ちの得物を乞うた。

信生はこの働きを賞し手槍を与える。成富は大いに悦び、脇差を以って塀を破り城内へ乗り込んだ。

鍋島勢は次々と城内に入って戦うと、鎮光が留守の城内は無勢であり、防戦虚しく次々と討ち取られていった。


信生は於安と鶴仁王丸を探させる。

すると、鶴仁王丸を江島左近の妻(水町丹後守の妹で、隆信が鶴仁王丸に附けた乳母)が抱きかかえて逃げていく。

それを鴨打家臣・菰原大膳が追い掛けて一刀の元に斬り伏せ、鶴仁王丸を取り返した。

於安も無事に保護すると、鍋島勢は二人を連れて帰陣した。

また、搦め手を攻めていた納富勢も帰還する。

この際、前田家定は、昨年に有馬勢に奪われていた佐留志の城を取り返すに至った。


さて、今山での敗戦と大友八郎討ち死にの報は、22日に田尻より宗麟に伝えられた。

大友本陣は狼狽するも、いまだ東の阿祢境原の豊後勢は退かなかった。

しかしながら、高峰口の臼杵式部少輔の勢は5000余騎であった筈が、今はその数を減らし2000に足らぬほどになっていると城中に聞こえ、ならばこれを討ち果たすべしと決した。

隔して8月23日、隆信自ら出陣し、納富信景を先手として高峯山で臼杵勢と戦った。

鍋島信生と龍造寺家晴は牛島より敵の背後に廻り鉄砲を打ち掛けると、臼杵勢は大慌てとなり東へ退き始めた。

山辺・高山以下宗徒の者達が数多討ち死に、臼杵式部も、一本松の南で納富家臣の辻左馬允に討ち取られ、敗残兵は東へ逃げ散った。

だが、それでも阿祢境原の豊後勢は退かず、9月に入り城中は再びこれを討ち払うと決し、再び隆信自ら出馬にて巨勢若宮に陣を布いた豊後勢に打ち掛かった。

これに豊後勢は支えようとせず、阿祢の味方と合流を図る。

隆信は此れを追うも日暮れとなった為、明朝に空が明けると共に攻め掛かるべしと述べるが、
これに倉町信吉が「差し出がましかれど、阿祢境原の在陣の敵が分限を量りまするに、今だ我らの十倍の多勢に御座いますれば、迂闊に攻めるべきでは御座いません。今夜は御帰城されるべきでしょう。但し、もし退却が敵に悟られれば大事となりますゆえ、此方より今夜鬨を上げながら退き上げましょう。敵は今山での夜討ちを思い出し、動揺し警戒致しましょう。その隙に御退きあるべきかと」と述べる。

隆信は同意し、夜半に鯨波を発しながら帰城するに至った。


阿祢境原の豊後勢はいまだ大軍であったが、戸次鑑連・臼杵鑑速は筑後の田尻鑑種を介し、9月下旬に和睦を申し出て来た。

隆信、宗麟共に承服し、佐嘉からは祝儀として岩部常久が派遣され、戸次・臼杵・吉弘の三老へ面褐、大友からは古庄左京允が差遣された。


10月1日、吉岡入道宗観は高良山の本陣へ赴き、戸次・臼杵両人は阿祢の陣所へ至る。

そこへ龍造寺鎮家・小河信実(後に武蔵守信貫)・秀島家周が二人と会見する。

同月3日、宗麟は高良山から開陣し府内へ帰り始めると、諸勢も帰陣に至った。

仲介した田尻鑑種は宗麟に良首尾を褒められ、鑑種が所望した幕の紋を許された上、太刀一腰を与えられた。

3月より退去していた龍造寺の妻子らは、和平を聞いて急ぎ帰城した。

同月、隆信は、大友に与した者達を誅伐すべしと下知し、まずは蒲田江の犬塚鎮家を攻めた。

鎮家は城を去って筑後に落ち延びる。

更に隆信は、東高木の高木胤秀(直茂前室の父)を攻めんとするが、高木兄弟は舅の臼杵氏に通じて養父郡の筑紫鎮恒を頼って落ち延びる。

しかし、隆信が筑紫へ向かう間に、鎮恒は高木兄弟を騙して朝日山にて討ち取ると、その首級を佐嘉へと送った。

次に隆信は、杵島郡の有馬方を征伐すべしと、弟の龍造寺信周を差遣する。

先陣を納富但馬とし、鴨打・徳島・前田・井元らを従えて小田大町へ陣を布いた。

これに有馬勢は悉く杵島郡から去り藤津へ入ると、殆どが横造の城へ立て籠った。

隆信は弟・龍造寺長信に人数を付けて多久城へ入れて、西の松浦・後藤の抑えとし、信周を杵島郡小田に留め置いて有馬・平井の抑えとし、従弟の龍造寺家晴を蓮池城へ移して、東の筑後への守りとした。

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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