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【龍造寺なんてキライよ♪顔も見たくない♪フン♪】神代勝利公「道」の巻4

本シリーズは東肥前を統一できたかもしれない郷土史の英雄・神代勝利公と嫡男・長良公に捧ぐ。
個人的依怙贔屓で本シリーズだけは、御諱に公の敬称をつけさせて頂きます(-人-)☆彡

1561年9月13日「川上合戦」での大敗北により、次男・三男が戦死し一族・一門衆も多数失った山内の英雄・神代勝利公。
着々と勢力を広げる龍造寺隆信に、次第にエリアが狭められていく山内勢。
果たして神代勝利公と山内勢に生き残る「道」はあるのか?
(以下緑太文字は北肥戦誌より抜粋)

隆信は神代領を悉く没収し、山内の処々に代官を置き、空閑(古賀)光家を山内の抑えにと朽井村へ移した。

朽井村は現在は行政区としては残っておらず、佐賀市大和町大字久池町になります。
位置的には玉林寺のあたりになります。
嘉瀬川を挟んで玉林寺の向かいが川上社(與杼日女神社)なんです。
神代勝利公が本陣を置くのを許したりなど、何かと勝利公へ協力的だった川上社への牽制もあったと思います。

・・・・・実は、亡くなられた神代勝利公の次男と三男は、この玉林寺に埋葬されたんです。
まだ土も乾かぬというのに・・・・゜・(PД`q。)・゜・
龍造寺を恨む山内勢がリベンジするにしても、勝利公子息が埋葬された玉林寺には、不敬したり戦火が及ぶような事は避けるでしょう。
玉林寺周辺は、いわば龍造寺家臣にとっての「安全地帯」でした。
(余計に反感買いそうな気もするんだが・・・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)

ここで重要なのは《代官を置いた》の部分です。
龍造寺隆信は敗北でヤケになった山内勢が、山野に潜伏してゲリラ化するのを恐れていました。

だから神代勝利公から没収した領地を、己の家臣への恩賞として分配せずに、龍造寺預かりと直轄地にしたんです。
神代勝利公に従った個々の山内勢への追撃もしませんでした。
彼等が龍造寺へ自然に帰服するのを長期戦で待つつもりだったんです。
残忍だの残酷だの散々な評価の龍造寺隆信ですが、時機を待つことが出来る器量があり、それは統治者として必要な資質でした。

人物・龍造寺隆信

えっと勝利公が、どうされてたかは別に紹介します。

とにかく適当に頃合いを見て、代官を通じて山内勢へ龍造寺への降伏勧告がされました。
帰順すれば、今まで敵対してた過去は全てチャラで、父祖伝来の本貫地を無傷で安堵するという寛大な内容でした。

ところが山内勢は、
「小利に迷わず(勝利公との)君臣の大義を守って、ついに隆信に降ろうとしなかった」by三瀬村史

無傷の本貫地安堵を小利とは、何という鼻息の荒さ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
まぁフォローすると、これは龍造寺に限った事じゃないんですよ。

江戸期の鍋島殿の時代になって神代家は領地替えとなり、一度は山内を離れたんです。
ですが新しい領主に山内の領民は何としても懐かない(_´Д`)アイーン
この頃は既に勝利公直系の血統は絶えてたんですが、山内衆を宥めるために神代家は再び縁故の地へと領地替えになりました。

江戸期で勝利公直系が絶えててもこんな状態なんで、勝利公存命時の戦国山内では、とてもとても・・・
龍造寺に限らず、どの勢力相手だって山内勢は全力で抵抗するから、爪も立てられません。

結局、何とか宥めて懐柔しようとした龍造寺隆信の試みは徒労に終わり、山内武士の多くが浪人化Σ(´Д`;)
山内各所に配置された龍造寺代官達は、いつテロに遭うか判らないという危険な役務となった。

山内浪士は心の底から信じてました。
勝利公なら必ず再び復活すると。
勝利公の仁徳を慕い、浪人生活の苦しさに耐え、ひたすら勝利公を待ち続けたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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