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【龍造寺の100日支配】神代勝利公「道」の巻6

緑太文字は北肥戦誌より抜粋
勝利の家臣・中村壱岐守は山内に残っていたのであるが、勝利を帰城させたく思い、16歳の嫡子・外記と共に山内・摩那子山の代官・田中兵庫助の屋敷に忍び入り、兵庫助を斬り殺し屋敷に火を掛けた。

北肥戦誌には摩那子山とありますが、佐賀市富士町大字麻那古の事です。
たぶん春日神社のあたり。

というのも、昔は神社で公事(くじ=訴訟や裁判)を扱ってたから。
湯起請に火起請に、村の決め事を神前で誓ったり、農作業や諸行事は全て神事とSET。
だから神社の近辺に代官所を配してたと思います。

これに近辺の領民が驚き馳せ集まると、中村父子は闇に紛れながら、不意に現れては領民を斬り殺しては隠れ、また現れては斬り殺して隠れ、また声を上げては手を叩くなどした為に、辺りは騒乱に至った。

おお・・リアルテロ行為!Σ(´Д`;)
この通り北肥戦誌では、山内の領民を中村親子が見境いなく・・・
という酷い話になってますが、三瀬村史では、ニュアンスが全く違います^^;

三瀬村史では、中村親子は代官を殺した後に(代官の)家に火をかけ驚き騒ぐ家人を突き伏せ追い散らした事になってます。
おそらく雑仕として代官屋敷に入ってた山内の者は「追い散らす」って形で逃がしたんだと思います。
もしくは召使われてた山内の者が、中村親子を手引きしたんじゃないでしょうか。
(でないと、あまりにも簡単に代官屋敷に侵入してます)

中村親子は、かねてより同心していた山内武士に声をかけた。
他の浪士たちも続々と集まり、他の龍造寺派遣代官&城代たちをo( ̄Д ̄θ★ケリッ !バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!と追い出す。 
そして事の次第を波佐見にいる神代勝利公に(* ̄○ ̄)ゝー御注進~~~~

知らせを受けて勝利公は「この機会を逸しては成らぬ」と大急ぎで山内へ帰還。
山内武士&民百姓「(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ 頭領~お帰りなさい!!!」
旧家臣は再び勝利公の元に戻り、山内はアッという間に神代勝利公支配に戻る。

時に1561年12月中旬・・・大敗北した「川上合戦」から100日もかからぬ勝利公の帰還だった。

人物・くましろん~ 勝利公イメージ画像

三瀬村史の中にいる?龍造寺隆信は「家臣ならともかく、山内の民百姓までが何故に佐嘉に背き勝利公に親しむのか・・・(-ω-;)ウーン(-ω-;)ウーン」と頭を抱えたらしい。
龍造寺隆信が三瀬村史にあるように悩んだのが事実なら、隆信は重要な点を見落としてます。

それは、神代勝利公が「山内勢から推戴された頭領」って点です。

誰の配下にもならない。
山内は山内として独立した勢力になる。

これは山内の民百姓に至るまでの総意です。
その「総意の具現者」として、山内勢は武勇・知略・人柄優れた勝利公を推戴しました。

だから龍造寺と敵対するのは、神代勝利公一人の野心から出たものじゃないんです。
もし勝利公の野心から来る暴走なら、これほど山内武士団・領民の結束が固いものにはなり得ません。

山岳地帯の山内は、平成の現代でも山深い寒村があります。
戦国時代ならリアル秘境に近い山里だったろうし、彼らの生活は豊かとは言えなかったでしょう。

おそらく彼らの生活は互いに協力しあわなければ成り立たず、
誰か大物武将・大名の配下になって(赤の他人の)軍役に応じる余力なんてなかったんじゃないでしょうか。

「山内勢の結束」は、単に山岳民族の誇りだけが支えているのではなく、
生活基盤がかかってたから結束が固かったんだと思います。



そんなウンチクは龍造寺隆信には、どうでも良い話で、今は何か別の対策&具体案を出さねばならない。
で、老臣たちと密議の結果「調略(ちょうりゃく=裏切り工作)」をしよー(・∀・)★ピコーン
と、割と鉄板なアイデアに落ち着いた。

何しろ結束が固いので、調略に応じる隙がありそうなカモを探すのも一苦労。
そんな中、目を付けられたのが「鳥羽院城主・西川伊予守」だったのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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