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【1570年】その3~大友軍まさかの敗北

隔して夜半、信生は「もし仕損じれば、再び帰城せず」と決心を述べ、17名を率いて出陣、城門を出る際に畳を二太刀切って出た。

道祖元(さやのもと)へ至ったときに百武賢兼の10人ほどが追い付く。

そして新庄村の勝楽寺で味方が集まるのを待った。

信生は堤治部左衛門に命じ、寺の竹を刈り取って旗竿を作らせる。

そこへ伊東家秀が信生の陣へ兵糧を届けた。

信生らはこれを食して新庄を発つと、納富信安・成松信勝・秀島信純・諸岡信良・成富信種・安住家能・西村家秀・倉町信吉・倉町信光・円城寺信胤、その他に江頭村の者ら200余人が鉄砲100余挺を携えて駆け付け、軍勢は700ほどにまで膨れ上がった。

そして藤折村へ着陣すると、西の山に沿いながら旗を差した100人ばかりが進み来る。

信生はこれを怪しみ、永松相五郎(19歳)を斥候に出すと、その軍勢は鴨打忠胤の率いたものであった。

鴨打は信生へ加勢すべく参上したのであった。

信生はこれを加え、大友本陣へ静かに進軍する。

更に牛尾別当の琳信が、宗徒を率いて鍋島勢へ加わった。


軍勢は徒歩で今山の中腹にまで登るが、途中で深い谷に出くわす。

上下ともに如何すべきか案じていると、信生は「斯様なときは難所といえども遅々とせぬものだ」と、槍を突き立てて自ら一番に飛び込めば、これに皆が続き高みへと駆け上がった。

さて信生が成松大膳・柄永左馬允ら7人を斥候に立てて敵本陣を調べさせると、
金屏風を立て並べ、燭台の火を掲げて明々とし、年の頃30余の大兵肥満の色白い者が正面の床几に座していた。

そして豊後勢は、明日の城攻めを前に皆が酒宴に及んでおり、夜襲あるなど思ってもいない様子であり、軍勢を急がせるべしと述べた。

斥候は成松刑部とも秀島源兵衛の家臣ともされる。


軍勢を伏せさせた信生は、八郎の陣幕の紋を見て、「あの紋を見よ。美しい紋ではないか。この陣を切り崩した折は、吉例としてあれを我が紋に致そう」と百武・諸岡に囁く。

頃合いとなり、鍋島勢は鬨を上げて攻め掛かる。

また中山掃部助に「我は神代長良なり。裏切り致すぞ」と呼ばわらせ本陣へと切り掛からせると、八郎の陣は動揺しきりとなった。

同士討ちを始める者まで現れる。

但し、八郎の馬廻り300は落ち着き払い、鍋島勢を防ぐ。八郎も自ら長刀を振るって戦う。

そこへ鴨打勢300が、西の山から鬨を作りつつ敵本陣へ打ち掛かった。

更に、今市へ陣を布いていた持永盛秀などの小城一揆らおよそ1000余人が、火縄を多く切って火を付け、竹に挟んで今市の東西に立て並べ、爆発音と鬨を発しながら攻め掛かった為、遂に大友勢は敗色となった。

信生は「端武者などに目を掛けるな」と下知し八郎を探させる。

八郎は主従10人程と山伝いに山越えせんと逃れ行く処を、その先の茨に伏せていた成松刑部と主従7名が八郎を取り囲み、遂には八郎を討ち取った。

その家臣も成松勢に討ち取られる。


やがて朝となるが、大友勢は散り散りに逃げ去り、大願寺野に陣を布いた敵勢も、八郎討ち死にの報に色めき立つ。

納富信景の率いた500余騎は、宵の内に川を越えていたのであるが、於保の黒土原の大友勢へ切り掛かった。

納富勢は二度打ち負けるも三度目で敵を切り崩し、敵を追いつつ大願寺野へ追い立てる。

そこへ敵本陣を追い散らした鍋島勢も大願寺野の西より攻め掛かり、更に広橋信了・副島光家・倉町信俊・鹿江信明・石井忠清も納富勢に加わった為、豊後勢は敗走する。

龍造寺勢はこれを追い掛け、数多を討ち取って行く。

中でも納富信景の勢に加わっていた前田家定は、家臣50名と敵を追い詰め、自ら首級5つを取っている。



吉弘大蔵允・林式部大輔は討ち取られ、城親冬・隈部親永は隆信へ降参、柄長左馬允・菅鎮定は虜となる。

19日夜半から20日の朝までに、大友勢2000余人が討ち死に、国侍では神代長良の家臣にして軍奉行の古川佐渡入道真清らも討たれた。

八戸宗暘も主従4~5人と山内へ引き退く最中に、川原忠右衛門に追い付かれて切り掛かられ、川原の左手を切って追い払うも、自身も深手を負っており、同月24日に逃れた杠山にて身罷った。

上松浦の草野鎮永も大友に加勢して家臣を大願寺に出していたが、敗軍し上松浦に帰る処を山内の落人狩りに逢い討たれる(鎮永本人は存命)。

小田鎮光は水上に陣を布いていたが、敗戦を聞くと陣所より逐電し、何故か多久城へは帰らず、旧領の蓮池から筑後へと落ち延びた。

また、西の丹波口に陣を布いていた有馬勢も撤退する。

信生は勝ち鬨を三度上げ、討ち取った敵の首級を大願寺野に悉く埋めて首塚とした。

納富信景も首級を於保原に埋めた。


隆信は、信生の小勢のみでは心許ないとして、その実弟・小河信貫(後の武蔵守信俊)を先陣に西高木の辺りまで馬を出していたが、今山での勝利を聞き帰城していた。

また隆信の出馬のときの話、愛敬島村の北の道を進んでいた際に、馬廻りの者の甲に竿が当たってガタガタと鳴っていた。

この者、極めて臆病者であった。これに隆信は立腹し「甲をよく仕れ!」と述べた。

が、馬廻りの者は「何故左様に腹を立てられます? 此度の戦は武運が決して居ります。

甲が「かつたり(勝ったり)、かつたり」と申して居るのが証拠」と返した。

隆信は一笑し、「左様な吉事を申すなら、本当に勝利した際には、この近辺の知行を取らす」とした。

果たして本当に勝利した為、この馬廻りには約束通り、この村の辺りに少地が与えられ、その田は「かつたり免」と呼ばれる様になった。

更にこのとき、斥候を追々発していたのであるが、ある斥候が走り来て大息を吐きながら、「豊後の者は皆キリシタンと聞いていたが、真言に魔法を使うようだ。大根に火を付け燈しておった!」と述べた。・・・この者、ロウソクを知らなかった。




蝋燭が、まだ珍しかったのね・・・川* ̄д ̄*川ポッ なんか可愛い~

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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