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【語り継ぐ者】神代勝利公「道」の巻10

裏切り者として殺された西川伊予守には、二人の息子がいました。
その二人は共に出家しています。
おそらく父・西川伊予守の裏切りに対する贖罪からでしょう。

鳥羽院(とばい)の里が、裏切りの追討によって戦場になる事はありませんでした。
西川の息子たちが逆らうことなく、早々に身を処したから必要が無いと判断されたんじゃないでしょうか。

三瀬村史には、裏切り後の鳥羽院の里を誰が支配したのか、その後の記述が無いので判りません。
三瀬村にとっては、地元じゃないですしね^^;

龍造寺家臣となっていた西川伊予守の叔父は慶長年間に佐賀市神野で没しました。
叔父の息子(つまり西川伊予守の従兄弟)は、小城藩鍋島元茂公に仕え、佐嘉から小城へと転居しています。
ですから武家として残った西川氏は、この小城鍋島家に仕えた庶流の系譜になります。

マニアックなシオブロを御愛読頂いてる貴重な皆々様、鳥羽院伝説でお話した教信寺の事を御記憶でしょうか?
後鳥羽上皇所縁の品々(大正時代に惜しくも火事で全焼)を所蔵し、住職は代々西川家の子孫が務めていたと書きました。

この教信寺の開基にして初代住職こそが、西川伊予守の嫡男なんです!
代々住職を務めたという西川家の子孫とは、西川伊予守嫡男の子孫(5代目住職くらいまでは完全に直系)
何という事でしょう・・・西川伊予守一人の裏切りが、世が世なら領主様だった嫡男と、その直系子孫の運命を変えてしまった・・・!(´;ω;`)ウッ

山内で「裏切り者」の烙印を押された西川嫡家は、もはや鳥羽院の地で御家再興することは叶いません。
小城鍋島家に仕える西川伊予の従兄弟を頼れば、何がしか手立てを講じてもらえたかもしれません。
ですが、それだけは断じて出来ない事なのです。

従兄弟叔父を頼れば、武家として復活出来ても、その時には佐賀藩独特の大人の事情が働きます。
おそらく90%以上の確率で、庶流と嫡流の逆転現象が起きるでしょう。
つまり先に鍋島家に仕えた庶流を、西川嫡家が本家と仰ぐ立場になる・・・という事です。
そうなっても平気だからヨロシク!なんて嫡家は、まず無いです( ̄ω ̄A;アセアセ

これは自分の想像なんですが、教信寺所蔵だった後鳥羽上皇所縁の品々こそが、西川家嫡家の証だったんじゃないでしょうか。
当主・嫡家の証である(と思われる)品々を守る為に、嫡男は鳥羽院の地・後鳥羽上皇行宮に教信寺を開基したのでしょう。

領主でなないけれど、違う形で鳥羽院の地を守る為にです。
そして嫡男が、どうしても守りたかったものとは「鳥羽院伝説」そのものだと自分は思うんです。

殺された西川伊予守の死に様を聞けば、裏切りに対する見せしめとして、その身体が不必要に切り刻まれたのは容易に想像がつきます。
武家としての御家再興が叶わないとなれば、西川家の誇りと名誉は回復出来ずに踏みにじられたままになる。

戦国の習いで「たまたま裏切る事になった、だけ」なのだ。
西川氏は由緒ある名族なのだ!
と、武家でなくなった西川氏が証明出来る手段は「教信寺(西川家嫡家)所蔵・所縁の品々」と「鳥羽院伝説」しかありません。
「鳥羽院伝説」の伝承を途切れさせない為、西川氏を鳥羽院の村人が忘れないように、嫡男は残ったと思うのは穿ちすぎでしょうか。
(ちなみに西川伊予守次男は、鳥羽院を離れて鹿島で寺院を開基し住職となってます。)



話は飛んで江戸時代、寺院は幕府の出先機関の一端を担い、現代における地方自治体行政を一部兼務してました。
つまり戸籍(人別帳)管理と旅券・パスポート(通行手形)の発行です。
位置関係からいって鳥羽院の村人の大半が、教信寺の檀家だったはず。
「おらが殿様」が「おらが和尚様」になったんですな( ゚Д゚)y─┛~~
たぶん・・鳥羽院に入る代官は、教信寺住職を無視して村の取決めを行うのは難しかったと思います。

絹巻時代から数えると文字通り1000年の歴史がある鳥羽院の地にとって、神代勝利公の時代は一瞬に過ぎません。
勝利公は山内の他の土地ではカリスマでも、鳥羽院領民にとっては西川氏との関わりの方が、遥かに長く密度も濃いんです。

世が世なら殿様だった和尚様が、法要のために鳥羽院の村々を回り、時には里の子供たちに手習いを教える光景があったかもしれない。
鳥羽院に産まれ、生きて、そして土に還り涅槃の先まで、ずっとずっと・・・見守ってくれてる。
西川伊予守の前から、その後も鳥羽院の村人の中で「良き殿様」とは西川氏ですっ・゜・(PД`q。)・゜・
親から子へ、子から孫へ、更にそのまた子へと、鳥羽院の村人は語り継ぎました。

絹巻が鳥羽院へと呼称が変化した由来を。
はるばる隠岐の島から、このうえなき尊貴な上皇様がいらしたのだと。
西川氏は上皇様に随行した忠勤の者であり、この鳥羽院は西川氏の領地だったのだと。

鳥羽院の民が語り部として名族・西川氏を証明し続けていくこと。
それこそが教信寺を開基した西川伊予守嫡男の願いだったはずです。


教信寺は大正時代に一度全焼してるので往時の面影はなく、所縁の品々も焼失。
寺院そのものも、北山ダムの関係で合併して善信寺になっちゃった・・・・(´・д・`)
西川家の方が今でも住職なのかも判りません。

電話して聞けば、すぐ出る答えではあるんですけど、
「電話代の下敷き」と「鳥羽院伝説+三瀬村史から導き出した、西川氏(裏)考察のロマン台無し」が怖いので、
最後の裏付けをとらず、あえてこのままで話を終える事を御了承下さいm(__)m

さて次のお題は・・・・それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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次男が

やはりそうですか。
佐賀藩独特の傾向でしょうね。

No title

シオ様すごいです。佐賀藩の家督相続は、次男が次ぐケースが多いと、以前知人から聞きました。
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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