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【和睦の思惑・参】神代勝利公「道」の巻13

「我に10年の齢があれば、機にのぞんで功を立てる事は掌の中にある」
という男前なセリフの前に、勝利公は龍造寺隆信の人物評を話されてます。

隆信の気質は、勇謀はあっても仁徳を知らず、
一旦、大利を得て数国を保つことが出来ても、後は驕り高ぶって万事が我儘になり、
一門近臣の中でも信あるものは嫌い退け、佞人や軽薄表裏のものだけが栄えて、
ついには禍がかこいの中から起り、一家を亡ぼすことてきめんである。


ボロクソです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

勇謀・・・は、判らないでもないです。
龍造寺隆信は、敵を倒すためならあらゆる手段を講じるタイプ。
謀殺とか暗殺とかって手段に対し、怯んだり躊躇しません。情実も絡めない冷静さがあります。

ただ一つ肝心な点は、三瀬村史のベースとなる「神代家伝記は江戸期に書かれた」という点です。
ネタバレしちゃうけど、神代家は生き残り肥前佐賀藩・鍋島家に仕えます。
しかも(藩主・鍋島家の)御親類格( ゚д゚)ンマッ!!

だから隆信の人物評に関しては「佐賀藩特有の大人の配慮」が多分に働いてると見た方が正解です。
つまり・・・( ̄ko ̄)<鍋島の殿より、龍造寺隆信を褒めるわけにいかないんでつ~~~

織田信長が秀吉の妻・寧々さんを気遣う手紙を書いていたように、
龍造寺隆信にも「隆信らしさ」を感じる「慈悲」や「温情」があったはずです。

龍造寺隆信は、初期に自分を追い出そうとしたクーデターに対し、処断したのは首謀者・土橋だけ。
利用された鑑兼も土橋の一族も家臣団の中に受け入れてます。
織田信長のように、後年になってから追い出したりなんかしてません。

隆信の人間的エピソード(善)は、江戸期に語り継ぐなかで鍋島家への遠慮から、記録から削ぎ落とされたと思います。
隆信に側室がいたかいないか不明なのが良い例です。
隆信には三人の息子がいましたが、残る二人の男子は生母が定かではありません。
嫡男の政家もウィキペディアだと生母が例の村中当主未亡人ですが、これもシオは出典の確認がとれてません。
もともと女性の記録は少ないものですが、隆信周辺は無さすぎです。

ガバイ母ちゃんのキャラが突出して有名すぎて、お蔭で肥前の熊はネタでマザコン認定されました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
軍記ものだと、いきなり斜め上に大言壮語してるのしか無かったりで、キャラに関してはアテにならないんです。(-ω-;)ウーン

話戻って勝利公は(男前セリフの後)言われました。
「長良(勝利公嫡男)、この意を含んで時を待つが良い。この際は一先ず和睦するが良策である」
と言われたので、一同は得心し従った。

人物・くましろん~ 勝利公イメージ画像

余談ですが、今回の和睦仲介は龍造寺家老・納富信景でした。
納富さんは1556年における「龍造寺VS神代」で、長男(北肥戦誌では義弟)を神代長良に討たれてます。
で、その時に未亡人となった息子(or義弟)の嫁が、後に鍋島直茂と恋愛結婚で再婚する石井家の彦鶴姫です^-^

龍造寺と神代勝利公は互いに誓紙を交わし、更に和合の証として縁組が決定します。
勝利公孫娘(長良の娘)と隆信三男(後の後藤家信)が婚約。

さらに隆信は亡き龍造寺胤久の娘を自分の妹分として、勝利公に嫁がせたいと申し入れたそうです。
1539年に亡くなった胤久の娘なら、けっこう年増なんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
この場合は年齢関係なく血統です。
なんてったって亡き龍造寺胤久は村中龍造寺の17代目当主でしたから(^ -)---☆Wink

えっと実は勝利公は2度結婚されてまして、初婚が異母兄実家の福島氏で長良公生母(生没年不明)。
継室が山内頭領に押された時に結婚した千布さんとこの娘です。

ただ、この継室・・・没年が天正年間・・・つまり勝利公は妻帯者。
嫁ぐとなると側室になるのは承知の上でしょうから、龍造寺側が相当気を使ってます。
(政略結婚が多い時代なので、側室でも「嫁ぐ」って表現を用いてました)

勝利公、この時既に数えで52歳。
自分は老いた身ですから・・・と、いまさら妻を迎えるのを辞退しました。
ですが龍造寺側(たぶん仲介役の納富さん)から、此度の和平に他意はなく嫁ぐのも山内への人質ですから、是非!是非~~~
と、強くプッシュされたので勝利公も承諾し、龍造寺胤久娘が嫁いで和睦が成立したのでした。
(※ただし北肥戦誌には胤久娘が嫁ぐウンヌンの記載はありません)

漸く平穏になった佐嘉と山内だが、それも戦国の世では長く続かなかったのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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( ゚д゚)ハッ

そうですね。仰る通りです。
諸説ありとして本文を修正します。

なにぶん未だ不勉強で多々至らないものですから、うっかりしてました。
御教授ありがとうございます(__;)

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とりあえず

はぅ!Σ(´Д`;) 実は、出典が探せなかったので「確定」ではないです。
現段階では、ウィキペディアなど一般に流布されている説に倣うという状況でして・・

納富氏自体は、桓武平氏説と大蔵系氏族説の二説あります。
元々は筑前姪浜⇒小城⇒佐嘉って流れと、鹿島から来たって話とか、あります。
龍造寺隆信の死後、納富氏は全部で9家に分裂します。
そのいずれにも属さず佐賀県北部で大小を捨てて帰農した一族もいて、そのあたりで系図がカオスになったかと・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

納富信純は、1556年に水利関係の争いで神代長良に討たれたって話があります。
嫡男が早死にしたので次男が家督を継いだという話です。
いずれにせよ納富信景は神代長良への遺恨が心底にあったようで、後に神代長良とアレになります。

政家の生母も典拠探せずで、一般に(ry
個人的には江戸初期に龍造寺御家再興運動があったのが響いてるんだと思います。
隆信の次男(江上家種)の男子は、その騒動に加担して会津保科家預かりです。
肥前で生き残った龍造寺は、当然自分らに不都合な記録は残さないでしょうから、その絡みで曖昧になったんだろうな~

実の所、文中にある胤久娘も三瀬村史にしか出て来ないエピソードなんです。
胤久没年の直前に産まれてるなら20代ですが、年相応の娘なら40代くらいで、その年で嫁ぐって言うか?
ただの人質だと龍造寺の面子に関わるんか?と突っ込みたいです。

龍造寺は隆信に限らず女系データが少ないので、辿りきれないのが現状です(トホホ

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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