FC2ブログ

【愛しき山内、さらば英雄】神代勝利公「道」の巻14

龍造寺隆信家臣の中で神代家との和合を反対する者がいたそうだ。
彼等19名は徒党を組んで、隆信にも秘して密かに勝利公を討たんと企んでいた。
(手柄を独占しようとした?)

企みを察知した隆信は「Σ(´Д`;)ちょ、それ不味いから!」と焦った。
勝利公を小手先の陰謀で討てたら、隆信本人がとっくに殺って・・・ゲホグホゴホ

とにかく正面だろうが裏だろうが、簡単にどうこう出来る相手じゃないからこそ和睦したんです。
この話が他から勝利公の耳に入ったら、和睦が台無し~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
大慌てで隆信は次第を勝利公に伝えた。

急報を受けた勝利公は精兵700騎(たぶん人数)を率いて、件の19名を討つべく山内を出ると、まず隆信公に対面した。
(同盟関係である以上、理由はともかく勝手に龍造寺家臣を討つのは礼を失します)

隆信は勝利公に言った。
「どうか、かの19名を討つのは勘忍して頂きたい(-人-)☆彡」
「彼らの処分は(彼等の主である)こちらに任せてもらえないだろうか?」
「このように大勢が我意を通して言う事をきかない時は、どのように処断したら良いでしょうか」
と尋ねたそうです。


・・・うーん、さすがは肥前の熊、実に上手い交渉術です。

人物・龍造寺隆信 龍造寺隆信イメージ画像

自分の家臣の不出来を他家に尻拭いさせたら、龍造寺は赤っ恥です。
さらに勝利公に自分から知らせるという事は「今回の和睦が隆信の本心からである証」となります。
隆信が誠意を見せた後では、勝利公が隆信を無視して龍造寺家臣を討つことは外交上出来ません。

龍造寺隆信の器量であれば、人に尋ねずとも処理能力はあるでしょう。
そこを敢えて勝利公に彼らの処断方法を聞くことによって、勝利公を立ててるんです。

勝利公は隆信の問いに返答されました。
「その儀ならば、彼らを成敗せずに寧ろ加増してやりなさい。」
「彼等は加増の多寡によって、利を貪ったり他を妬んだりで必ず仲間割れします」
「大勢で徒党を組まれると成敗の妨げになるので、この方法がベスト(=^・ω・^=)v ブイ」

(じゃっかん、超意訳しました)

隆信公は「(そういう手もあるのか)なるほど」と感心され勝利公の意に従うのを約束したので、勝利公も山内へ撤収した。
その19人は勝利公の言われるように仲間割れし、龍造寺に逆心したものが出たので小城郡芦刈で討たれたとの事です。
後に話を聞かれた鍋島直茂公が「勝利公の優れた計略である」と絶賛したそうな^^/

唐突に三瀬村史に鍋島の殿の名前が出るのは後年の伏線かしらん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!




和平後は山内と佐嘉の交流が始まったのだが、三瀬だと遠すぎて折々の交際に不便を感じるようになった。
1564年、勝利公は里近くの畑瀬(佐賀市富士町大字畑瀬)に城を築かれました。

里、近い・・・・のかな?
まぁ、嘉瀬川上流の地だから三瀬に比べたら格段に近いか( ̄ω ̄A;アセアセ

嫡男の長良公は千布に城を置き、常は親子それぞれの城で過ごすこととなったのです。
さらに勝利公は長良公に家督を譲られます。
畑瀬城は、そのまま勝利公の隠居城となり、同時に終の棲家になったのです。

同年、暮れから勝利公は体調が思わしくなく食が進まなくなり、臥所に伏せる日々が多くなりました。
神仏への祈祷も医療も思う限りの手は尽くしましたが、勝利公は日々衰弱していきました。
病気には胃ガン説と胸部に受けた古傷が元の二説あります。

とにかく勝利公は回復される事無く、
1565年3月15日畑瀬城で永眠、享年55歳。

・゜・(PД`q。)・゜・・゜・(PД`q。)・゜・・゜・(PД`q。)・゜・
一つの時代が終わりを告げました。
我々は夢から覚めなければなりません。

勝利公亡き後も、山内武士団の生き残りをかけた戦いは続きます。
後を継がれた長良公が舵取りをされるのですが、それは・またの話 by^-^sio

出典元:三瀬村史
スポンサーサイト



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
779位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
122位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR