【佐賀藩家老・深堀氏、壱】西肥前強化期間・リサーチ5武家目

長崎氏の紹介で深堀氏がポルトガル商船に対し海賊行為(嫌がらせ&実益)を行ってたと書きました。
実は海賊「行為」~って、いうより、ぶっちゃけ深堀氏は海賊(←本職)で名を馳せてまして・・・^^;
豊臣秀吉の海賊禁止令に引っかかって、一度は改易(天正16年)になったらしい。
(改易になったのか、ピンチをギリ回避したのか、ちょっと確定出来なかった・汗)

その深堀氏の本貫地~現在の深堀町は、長崎氏の桜馬場城より10km以上南にありました。
本城は俵石城(別名:深堀城)で、現在の長崎市深堀町(城山)のあたりにあります。
俵石城の廃城時期は、ざっと検索した現段階では不明。
いずれにせよ「秀吉の九州仕置き以降~江戸初期・一国一城令公布」の間でしょう。

佐賀藩家老として系譜を残した深堀氏は、長崎氏と違い本貫地を動く事なく明治を迎えます。
江戸期は深堀陣屋(深堀町5丁目)を構え、拝領された「鍋島姓」を名乗ってましたが、地元からは「深堀の殿様」と呼ばれていたそうですよ(*´pq`)



深堀氏のルーツは桓武平氏三浦氏流・・・つまり本姓が平氏で三浦氏の子孫。
ちょっと系図となると曖昧な部分があるんですが、少なくとも三浦一族だっただろうと言われています。
深堀姓の由来は上総伊南荘深堀に住んだ事から「深堀姓」を名乗ったそうです。

深堀氏が肥前に所縁を持つようになったのは、承久の乱(1221年)。
幕府サイドで戦った際の恩賞として・・・・貰ったのは筑後の土地ヽ(。_゜)ノ アレレ?
場所が気に入らなかったのか、深堀氏の方から幕府へ換地を申し出て、肥前に変更になったそうです。

一般的に国人領主が姓を名乗る場合、在住した土地名を名乗る方が多いかな?
「肥前の深堀」は、逆パターン。
元は違う地名だったのが、深堀氏が土着する事によって「深堀」へと地名の方が変更になったそうです。

なんとなく家風としてキャラが濃そうな深堀氏は、相続法も変則でした。
何故か嫡男ではなく、嫡孫に相続させてたらしい ( ゚д゚)ンマッ!!
そうなると嫡孫は若年で惣領になるわけですから、ジジ・パパが後見してたとしても、相続で係争が起きちゃいます。
ちなみに鎌倉時代は女子にも相続権が認められてたので、余計に揉めたんじゃないでしょうか。

そのため鎌倉末期頃には総領制が崩れてしまい、それぞれ一族が独自の判断で行動してた。
「建武の新政」での軍勢催促は、深堀氏総領家だけでなく庶家にもバラバラに届いてたそうです。
まぁ、この辺は深堀氏に始まった事ではないでしょう。
島津も分家と宗家は、それぞれの政治判断で別行動だったりしてますからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
でも島津より深堀の方が、いち早く崩れたぞ てか?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

途中経過、すっとばして戦国初期。
深堀氏当主で頭角を現すのが、深堀貴時。
時は明応年間。ちょうど有馬氏が勢力拡大し始めた頃なのだが、それは・またの話 by^-^sio
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まだまだ読んでない資料があるかなかで、

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また調べてる過程で訂正する箇所が出てきたら、新たな記事にて修正します。

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時乃★栞

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