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【ISAHAYA★in西郷・勇】西肥前強化期間リサーチ6武家目

西郷尚善が築いた高城(諫早)城~現在は諫早公園となってます^-^
城の北は本明川、南は湿地、四方に高櫓を構え、東に大手口・本門・桜馬場があったそうです(城郭放浪記より)

1474年(文明6)西郷が城を築いた前後に、有馬貴純が大村純伊を攻撃しました。
西郷尚善も有馬配下で出陣し「中岳(大村市中岳町)の戦い」で功績を立て、その武名を西肥前に響かせたとの事です^-^

この戦いで大村領は有馬氏に併呑されたんですが、2年後に大村領は肥前千葉氏に(も)併合されてます。
どうやら大村領は一度ならず数度敗れて、有馬や千葉氏に併合されてはリベンジを繰り返してたようです。
ちなみに大村藩史では、肥前千葉に敗れた事は黒歴史化して記録なしです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

大村氏が公式?リベンジしたのが1480年(文明12)の事。
この時は西郷尚善も臨戦態勢に入ったんですが、最終的に大村と有馬が和議したので西郷尚善自身は参戦せずに終わりました。
和議後の大村氏は有馬氏と縁戚関係になることにより息を吹き返したようで、必然的に諫早への圧迫が強まったようなんです。

1491年(延徳3)西郷尚善は大村への備えとして、尾和谷城(下大渡野町)を築城。
西郷は城の水を確保する為に、大渡野に落から開へと水路を引きました。
更に山下淵に井堰と水門を造り、田井原に水路を引く。

これらの用水路が今日「西郷尚善の用水路」と称されているものです。
この用水路は多少の変化はあったものの、平成の現代においても基本ベースとして活きてます。

近代諫早市の歴史は西郷氏の存在を抜きにしては語れない・・・はずでした。
ほかならぬ西郷氏自身が、文書を処分さえしなければ・・・・゜・(つД`q。)・゜・

1523年(大永3)深堀氏で紹介したように西郷尚善が「善」の文字を深堀善時に偏諱してます。
深堀善時は、この時が元服でして西郷尚善は烏帽子親も務めてます。
諫早の西郷氏が、国人領主として一定の勢力を築いていたことの証左でしょう。

武勇・治政とスペックが高かった西郷尚善ですが、どうやら男子に恵まれなかったようなんです。
1528年(大永8)有馬晴純の実弟・純久が西郷尚善の養子となって家督を継ぐ
1528年は8月28日に享禄へ改元してるんですが、養子縁組~相続は改元前のようです。

同年、隠居となった尚善は、京都へ上洛レッツGO♪ヽ(*´∀`)ノ
公家の三条西 実隆に逢って連歌の指導を受けてます^^b
これも改元前みたい~三条西さんは「実隆公記」を残してるくらいの文化人だから年号のミスはないと思う。
西郷尚善自身も風流・文化人だったんでしょうね^^

個人的には京都へ上洛したコース(途中までは船便かな?)とか、
バリ長崎弁と思われる西郷さんと、京都・公家言葉の三条西さんとの会話が気になります(爆
(同じ肥前でも西と東では方言や発音が違う)

尚善の養子となった純久は、内政に尽力したそうですが、史料ないので事跡がハッキリしてません (゜-Å) ホロリ
かろうじて判ってるのが1548年に田原六地蔵を作ってる事くらい。
この当時の諫早では六地蔵建立がブームでして、これは「生前に」極楽往生を祈願して作るものなので、純久自身が建立したのには間違いないです。

諫早の干拓事業は450年の歴史があるそうですが、それは西郷氏統治時代とモロ被ります。
おそらく尚善が造った用水路は、純久統治時代に農業用水として活用された事でしょう。
干拓・開墾が進み諫早は豊かになります。

西郷氏の諫早に陰りが出るのは、龍造寺隆信が勢力拡大し始めるからなのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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