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北肥戦誌【1570年】その1~今山合戦・大友軍8万VS竜造寺

この年、反抗から7ヶ年近くに及んだ高橋鑑種を降すべく、大友の三老率いる軍勢が岩屋城へ攻め掛かる。

鑑種は降伏、下城に及んだ。それと聞いた宗麟も、先非を許した。

但し、高橋の家督は吉弘鑑理の弟・吉弘鑑盛(後の高橋紹運)が継ぎ、鑑種は豊前の岩借(岩石)城へ隠居した。

鑑種の降伏に続き、古処山の秋月種実・高祖の原田越前入道了栄・五箇山の筑紫右馬入道も大友へ降った。

唯一、妙見の星野親忠のみが、いまだ籠城の構えを見せていた。


さて、龍造寺家は昨年に大友家と一旦の和睦をしていたが、人質であった秀島孫五郎賢周はこの年の春に、府内より忍び出て佐嘉へ帰還していた。

これにより大友は再び、龍造寺家を攻めんと大軍を出兵させる。

大友勢は3月10日に日田へ着陣、
それから筑後へ討ち入り、昨年の如く、高良山を本陣として三老に豊後・豊前・筑後・筑前による多勢を率いさせ佐嘉へと派した。

軍勢は3月27日に肥前へ入ると、
戸次鑑連は龍造寺領の東側の阿祢境原へ、
臼杵鑑速・吉弘鑑理は北側の春日原・河上表へ、
下筑後勢は兵船を用意し、南の榎木津に陣を布く。


高来の有馬義純も大友へ合力し、高来・藤津・杵島などの士卒を率いて、西の砥川・丹波・牛尾まで出陣した。

山内の神代長良も川窪へ出陣、昨年と同様に神代兵庫頭を頭に河上に陣を布かせた。

この他に、高木胤秀(直茂正室の父)・江上武種・犬塚鎮家・横岳鎮貞・馬場鑑周・筑紫鎮恒・綾部賢幸・藤崎盛義・本告頼景・姉川惟安を始め、東肥前の皆が大友方となり、千布・金立・春日表へ出陣した。

また、小田鎮光も多久城を出て水上山へ陣を布いた。これにて大友方は80,000余騎にも及んだ。


大友勢は、昨年焼き残した神社・仏閣・森林に至るまでを悉く焼き払い、古跡の伽藍・仏像・経典など残らず灰塵に帰した。

対する龍造寺勢は5,000である。

隆信は、東の大手を鍋島信房・鍋島信生・小河信友らを、南の船手を蓮池城の龍造寺長信へ下知して龍造寺信種を、西の砥川・丹波・牛尾を龍造寺信周・納富信景・広橋一祐軒信了をそれぞれ割り当てて守らせた。

大友勢は不用意に攻め掛かろうとはせず余裕を見せ、城を取り囲んだまま4月下旬に至る。


4月23日、村中城で評定が開かれ、不意に打って出て敵の分際を量るべしと決した。

所謂、威力偵察である。

先陣を鍋島信生・小河信友、二陣を納富信景、殿を隆信の旗本らが務め、東の戸次鑑連の陣へ切り掛かった。

鑑連は取り乱す事無く、2000名ばかりを中田町へ繰り出す。

双方、鬨の声を発して矢を射掛け合う。

戦いの半ば、鑑連は兵を分けて、自身は千住村の堂の前へと廻ると、隆信の旗本勢目掛けて打ち掛かった。

旗本勢が押されると、信生は先陣を納富に預け、自身は手勢を率いて倉町信吉を誘いつつ、鬨を上げながら戸次勢へ切り掛かった。

これにより旗本衆は備えを立て直し、数刻戸次勢と戦った。

戸次勢は千変万化に戦うも、打ち負けて敗走、僅か500名程で空き屋敷に籠った。

隆信は勝ちに乗じて攻めさせんとするも、俄かに大雨となり、また日暮れとなった為、止む無く帰城するに至った。

鑑連は翌日、横大路の茶臼山へ陣を移した。




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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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