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【肥前後藤氏・壱~平安】西肥前強化期間リサーチ7武家目

リサーチなんですが、8武家で終わらせる予定でいます。
有馬と大村も・・・って思ってたんですが、アチコチに点在してるデータを集めるとなると、キツすぎるので断念しました^^;
で、後藤氏ですがネタバレ予防の為、ここでは北肥戦誌に具体的に登場する前の後藤氏までとします^-^

ところで、そもそも武雄市が西肥前なのか?という素朴な疑問が・・・^^;
文化や方言的に・・・とヒントを探したんですが、道産子では文化圏の微妙な違いが判断できない^^;
とりあえず有馬氏最盛期エリアが六角川流域(杵島郡)までだったので、武雄市も西肥前に含めました。



戦国ファンなら察しがつくと思いますが、名前に「藤」があるので本姓は藤原氏。
正確に言うと「利仁流藤原氏」

鎮守府将軍・藤原利仁の系譜で公則が「肥後守」になり、「肥後の藤原」から後藤氏を名乗ったのが始まりだそうです。
あり?初めから肥前じゃなかったんだ^^;

んで、公則さんの曾孫が、肥前国墓崎(=塚崎)の総地頭になったのが肥前との所縁の始まり。
とはいえ、肥前に土着するまでは河内にいて、姓も「板戸(河内にある地名らしい)」だったとかで、いまいち地頭になった経緯が曖昧です。

史料などで後藤氏のことを「塚崎の後藤」って、ちょいちょい出ます。
「武雄鍋島(後藤)氏」の呼び名に慣れてる方々や、地元地理を知らない方だと「塚崎って分家かな?」って錯覚する・・・
かも?しません?判んなかったの自分だけ?^^;

ゲホゴホ・・・とにかく塚崎(武雄市武雄町大字武雄)こそが、後藤氏の本貫地。
馬渡(もうたい)氏の本貫地・川古(武雄市若木町大字川古)より、5km弱ほど南になります。

北肥戦誌『後藤家由来の事』によると、後藤氏が肥前国塚崎庄に向かったのは1108年の事。
これって平安時代だ! はぅっΣ(´Д`;)
後藤氏を名乗ったのは肥前に土着してからかもしれません。

ところが地頭として下向したはずなのに、すぐに城を築城してないんでつ・・・( ̄ko ̄)
後藤氏が塚崎城を築城したのは、サイト城郭放浪記によると推定で元永年間(1118-1120)。

ほんとに地頭だったのか・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
まぁ、つまり土着して力を蓄えるまで10年ほどかかったか。
由来の方が10年違ったかのどっちかです。

この平安期・武雄市において最大の版図を地頭として領していたのが、橘姓渋江氏でした。
てことで渋江と後藤が、想定外の濃さで絡むので渋江を再リサーチする羽目になってますil||li _| ̄|○ il||l

橘姓渋江氏の領地が長島庄、現在の武雄市橘町大字永島と武雄町大字永島の両方を含むので、かなりの広さ。
後藤の塚崎など、同じ「荘」の字がつくのに、渋江の長島庄の1%すらないんです。
なんで、こんな極端な行政区分にしちゃったのか、さっぱり判りません,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

鎌倉に元寇に南北朝と、様々な激動の時代を乗り越えつつ、渋江と後藤は戦国初期を迎えたのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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