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【肥前後藤氏・五~純明(すみあき)前篇~】西肥前強化期間リサーチ7武家目

突然ですが、橘姓渋江氏は渋江公勢の代が最盛期だそうですよ~
って、他人事っぽい書き方になるのは、一度衰微してた渋江氏が勢力拡大した経緯が不明だからなんです。

『橘家渋江由来記』によれば、公勢は武威を振るい、上松浦の波多興信、杵島郡塚崎の後藤職明、藤津の原越後守、白石の白石道勝、多久氏、平井氏ら、近隣の諸領主は人質を出して公勢に属していたとある。
(参照サイト:武家家伝_渋江氏より)


根拠となる文書が乏しいのだが、うっすらと勢力の大きさを辿れる傍証がないわけではない。
渋江氏は公勢の代で本城を潮見城から日鼓岳城に移してます。

日鼓岳城、位置データ:武雄市若木町大字本部
え~っと城の遺構は絶望的な状態でして、かろうじて城跡の標識が残ってる程度^^;
日鼓岳という地名は残ってなくて、現代の八幡岳になります。

ここで注目なのはモチ住所ね(^ -)---☆Wink
日鼓岳城があった若木町大字本部は、馬渡(もうたい)氏の川古より2km強ほど北。
渋江氏本貫地である長島庄からだと10km弱ほど北に位置してます。

本城を長島から若木町の日鼓岳城に移したって事は、その分だけ渋江勢力エリアが広がったってた事になります。
日鼓岳・・・現在の八幡岳は眺望最高の夜景スポット。
武雄市、唐津市、佐賀市を見渡せる山頂の光景は、まさに最盛期の渋江氏本城に相応しい場所です。

>近隣の諸領主は人質を出して公勢に属していたとある
ここも注目。
ということは、後藤職明の娘は人質を兼ねた側室だった可能性が高い。
そうなると、いろいろ得心・符号します。

渋江家から養子に入って後藤の家督を継いだ純明(職明の外孫)は、実は公勢の長男( ゚д゚)ンマッ!!
純明が渋江を出て後藤の家督を継ぐ・・・
それ即ち純明は渋江家の長男であっても嫡子ではなく、生母(後藤職明娘)が渋江公勢の側室だったって事です。

当然、力関係は「渋江公勢>>>>>>超えられない壁>>>>後藤氏」なのね。
15代目英明から塚崎と長島の地頭職を兼務してた後藤氏ですが、何といっても長島庄は渋江氏の本貫地。
渋江が勢力を取戻し&室町幕府が衰退した戦国初期、ともなれば後藤氏の地頭職の権威を振りかざすのは無理だったと思う^^;

1504年(永正元年)、渋江公勢は軍勢を催し没落してた大村純伊に助勢を約束。
1508年(永正4)渋江は軍勢を動員し、大村は有馬からの領地奪回に成功する

とあるのだが、これが大村サイドの記録なので真偽が怪しい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
だって伊勢詣で大村純伊と渋江公勢が偶然出会い、大村の境遇に渋江が同情してウンヌンって、話が出来過ぎよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

とにかく渋江公勢は近隣の国人に動員をかけられるほどの勢力を誇っていたらしい。
ちょっとした戦国大名に近い状態だったのだが、最盛期と没落は常にカードの裏表・・・
悲劇が起きるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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