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【松浦党~上と下と宗家と分家と3】西肥前強化期間リサーチまとめ

最近読んでる「筑前戦国史(吉永正春)」によると、五州太守としてブイブイ言わせてた頃の少弐政資は、
守護代・宗貞国の下に博多代官を配置して、ダイレクトに朝鮮貿易なぅで稼いでたそうだ。(朝鮮側の記録)

1497年(明応6)4月19日、その少弐政資が大内に敗れて自害。
翌1498年、少弐滅亡でチャンス~~山口に亡命してた平戸・松浦弘定が宗家・松浦政を攻め滅ぼす。

ちなみに、平戸・松浦弘定の弘は大内氏からの偏諱です。
一文字諱の松浦一族ですが、偏諱受けると二文字の普通ネームになるみたい^^
逆に言うと、松浦一族で二文字諱の人がいれば、それは誰かから偏諱受けてる事になります。

平戸に滅ぼされた宗家は、正室と嫡男(親・ちかし)が人質にとられる大ピンチ!Σ(´Д`;)はぅっ
前回も話したけど、松浦宗家正室が、亡き少弐政資の孫娘(嫡男・高経娘)でした。
で、今度は宗家のリベンジの番^^b

人質(正室と若君)奪還は家臣の活躍ですが、松浦宗家復活と少弐氏復活はリンクしてます。
1512年に蜂起した松浦宗家と平戸・松浦弘定は、龍造寺阿波守の仲介で和睦します。
蜂起された時、平戸・松浦弘定は、大内氏に同行し京へ上洛してて不在だったんです( ̄ω ̄A;アセアセ
この仲介した龍造寺阿波守が、龍造寺一族の誰にあたるのかが特定出来なかったil||li _| ̄|○ il||l

更に宗家・松浦親(←成長した若君)の実叔父にあたる少弐資元の奔走で、旧領復活に成功します。
それが1531年で、少弐資元が大内勢に勝利した「田手畷の戦い」の翌年の事です。

旧領復活した宗家・松浦親は、更に体制安定の為に少弐資元の息子を養子に迎えました。
一安心と思ってたら、1536年に少弐資元が(また)大内に敗れて自害  ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

宗家が復活してから、わずか5年後~~やべーーアタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
松浦親、今度は有馬晴純から養子を迎えた。それが宗家・松浦盛です。
少弐氏から迎えてた養子・鎮が、どうなったかはシオレベルでは辿れませんでした

平戸松浦では弘定が1515年に没し、源三郎興信が当主でした。
はい諱が二文字ですね^^/
これは大内義興からの偏諱です(=^・ω・^=)v ブイ

平戸・松浦興信は、大内義興亡き後は大内義隆に仕え、朝鮮・明との交易で莫大な利益を得たそうです。
が、金があるからといって家中盤石とはいかなかった。

この源三郎興信は、亡き弘定が男子に恵まれず養子に迎えた甥っ子なんです。
でもって亡き弘定自身も長男でなくて次男でした。
長男(興信パパ)は他家を継いでて、まぁそれでゴタゴタ揉めて、兄弟和解の証として弘定は兄の子である興信を養子にしたって流れがありました。
1491年の宗家VS分家も、元の元は平戸の兄弟確執が始まりの始まりだったんです^^;ヤヤコシイ

そういう不安定要素が根っこにある中での1541年に、平戸・松浦興信が死亡する。
ちなみに松浦興信の法号は「高齢」で(ビックリ)なのだが
それは・またの話 by^-^sio

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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