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【松浦党~上と下と宗家と分家と・1】西肥前強化期間リサーチまとめ

北肥戦誌を見てたら・・・出て来た。

>下松浦・上松浦   

・・・・・・・・・・・・・・・松浦党にも上と下があるのか _| ̄|○ il||li


てことで、リサーチでつ~~~
松浦党は北肥前を中心に活動した大宰府の贄人たちの集合体です。
贄人とは「魚などを獲る人たち」であり、それを「御供物として治める人」でもあります。
彼らはやがて田畑を耕し勢力を広げ武士化して行ったのですが、単体では弱いので互いに結合し「松浦党」となりました。

だから鎌倉以前のことは不明で、その後は「基本は少弐の被官(紆余曲折はある)」
中心となったのが松浦氏なのだが、松浦党として諸氏が個々に動く場合もありで注意が必要。

南北朝では松浦氏は南朝となっている。(ただし親兄弟は北と南に別れて相克する)
室町時代には、松浦党の規約を定めて団結をさらに強化。

上松浦(地域)を中心として「波多・神田・志佐の諸氏からなる上松浦党」
下松浦を中心として「御厨・今戸・志佐・伊万里の諸氏からなる下松浦党」に分かれる。
戦国期を生き残るのが下松浦党所属で、宗家松浦氏の傍系である平戸松浦氏。

****【嫡流】相神浦松浦【江戸期旗本】****

松浦家祖は渡辺綱の曾孫ってことで、諱は武家には少ない一文字でして、
通字は?偏諱の場合は?ってシオにも謎です^^;

子沢山で子孫繁栄~「上松浦党」「下松浦党」も、そもそもが松浦氏から派生した庶家なんです。
「松浦党」は全部で48家or53家とも言われています。
一揆契諾して「党」となるあたりが、いかにも「板戸一枚下が地獄」の海の男らしい^^

分家の平戸松浦家が松浦義(平戸義)の時代に、足利義教の信任を受けて以来、宗家を凌ぐ勢力を保持するようになった。
そのため宗家である相神浦松浦と平戸松浦は激不仲。

戦国期は大智庵城が相神浦松浦の本拠地。
宗家相神浦は少弐氏がバックだったが、えっと色々あって地盤沈下。

平戸は明の商人を呼び寄せ貿易で利潤をあげ、経済的にも宗家を圧倒する。
最終的には力尽きて宗家相神浦は平戸に降り、平戸松浦氏が宗家の座をゲッツ(=^・ω・^=)v ブイ
その後、子孫を徳川家が拾い上げて旗本としたので、本家も武家としては残った。

****【分家】平戸松浦【平戸藩6万石】**************************

北松浦半島を制圧し、宗家を遂に屈服させたのは松浦隆信の代。
龍造寺隆信からの圧迫で一時キツかったが「沖田畷の戦い」で龍造寺が没落したために独立維持。

隆信の子・鎮信も戦国期の舵取りを誤らず、関ヶ原の難しい政局(鎮信は東軍だが、息子が西軍で伊勢攻めに参加)を乗り切る。



記事タイトルを変更して再アップです^^;
過去記事はリサーチ不足な為、推敲が未熟で恥ずかしい~~~~それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
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